建築家ジュゼッペ・テラーニは、イタリア北部のメーダ出身の建築家です。コモに多くの有名なモダニズム建築を残し、39歳の若さでなくなった建築家です。
本記事の内容
本記事では、建築家ジュゼッペ・テラーニの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家ジュゼッペ・テラーニは、ファシズム政権下で、多くのモダニズム建築を設計します。この当時の才能ある若者が多く参加したのと同じように、ジュゼッペ・テラーニがファシズムに惹かれたのかどうかは、実際のところはわかりません。しかし、彼の建築の重要な側面に、ファシズムと近代化の融合の視点があり、そこにイタリアの未来を見ていたのでしょうか。同じモダニズム建築でも、時代と場所によって大きくそのデザインの使われ方が異なります。
目次
- 建築家 ジュゼッペ・テラーニの略歴
- 建築家 ジュゼッペ・テラーニの作品
- 1929 ノヴォコムン集合住宅
- 1936 カサ・デル・ファッショ
- 1938 ダンテウム
- 建築家 ジュゼッペ・テラーニの書籍 紹介
- まとめ
1.建築家 ジュゼッペ・テラーニの略歴
ジュゼッペテッラーニは、1904年にイタリア北部のメーダで生まれました。その後、母方の親戚と一緒にコモに移り、1917年にコモ工科大学で物理数学を専攻します。1921年に王立高等技術研究所(後のミラノ工科大学)の高等建築学校に入学しました。 そこで、ジュゼッペ・テラーニは、生涯の友人であるピエトロ・リジェーリ(Pietro Lingeri)に出会いました。 1926年にジュゼッペテラーニは卒業して、ルイジ・フィジーニ、グイド・フレッテ、セバスティアーノ・ラルコ、ジーノ・ポッリーニ、カルロ・エンリコ・ラーヴァ、アダルベルト・リベラとイタリアの合理主義建築の宣言を行います。このようにしてグループ7(Gruppo7)が形成します。
1927年、イタリアの合理主義のマニフェストと見なされた4つの記事が雑誌「Rassegna italiana」に掲載されました。テラーニは、このマニフェストに署名しています。
その後、ダンテウム、カーサ・デル・ファッショなどの設計を行います。そして傑作であるカーサ・ジュリアーニ・フリジェーリオの設計もこの時期です。
その後戦争に参加し、ジュゼッペ・テラーニは1941年に最初にユーゴスラビアに送られ、次にロシアに送られました。テラーニは1943年に39歳で脳血栓症により逝去します。
テラーニはファシズムに加担したと見なせるのでしょうか。ある建築史家は完全にファシストであると表現しています。一方で、そうしたファシズムへの思想的な傾きは、カトリックなどの宗教的なものと同様に架空のものであり具体的な出来事と矛盾している点では、宗教主義者と同じではないかと言う意見もあります。テラーニには、卒業する前には新中世のスタイルで、コモで住宅プロジェクトを作成していました。時代として、イタリアは、オーストリア、フランス、アメリカなどの近代運動の影響が大きかったと言えますし、戦争の時代とも重なっています。テラーニの建築を調べる前に、時代としての思想的な変容の理解が必要ですね。
2.建築家 ジュゼッペ・テラーニの代表作 紹介
1929 ノヴォコムン集合住宅
ノヴォコムン集合住宅は、1929年に竣工しました。ジュゼッペ・テラーニによるイタリアの近代建築の最初期のものです。依頼主は、不動産会社のNovocomum of Olgiate Comascoです。
テッラーニは、伝統的なスキームに従って建物内部を設計しましたが、外部は合理主義と表現主義による当時としては極めて前衛的なファサードで覆っています。1928年にプロジェクトが行政の建築許可を得るときには、この前衛的建築による却下を恐れて、新古典主義のファサードを備えた建物としました。しかし、建設完了後にファサードが公になると大きなスキャンダルとなりました。しかしその後専門家委員会で建築が認められました。1930年に「La Casa Bella」の掲載され、イタリア合理主義建築の象徴となっています。
構造は鉄筋コンクリートで、玄関は正面の中央に位置しています。3つの階段があり、1つは入口の中央に、2つは角にあります。これらは、全体がガラスで覆われた円柱状のボディによって強調されています。地上5階で、一部はオフィス、残りはアパートです。内部は合理主義を徹底しているのではないため、ノヴォコムン集合住宅をイタリア建築史上で非常に重要なものにしているのは、単純なボリュームで構成された外部のファサードと言えます。現在、建物にはオリジナルの色が使用されています。
1936 カサ・デル・ファッショ
カサ・デル・ファッショは、1932年に着工して1936年に竣工しました。1936年はベニート・ムッソリーニ政権下であり、ファシスト党の地方支部として完成しました。ここは、大衆参加の大規模なファシスト集会のために、ガラスのアトリウムを中心とした古典的な宮殿として概念化されています。1957年からは警察の州本社がありました。
1938 ダンテウム
ダンテウムは、ベニート・ムッソリーニのファシスト政府によって企画されたアンビルドの記念碑です。残っているのは、テラーニのスケッチ、建築モデルの一部、プロジェクトレポートの断片だけです。 この建物は有名なイタリアの詩人ダンテを祝い、帝国ローマの栄光に基づいて築く強力なファシスト国家を称賛することでした。
イタリア・ダンテ協会会長であったリノヴァルダメリは、ローマ万国博覧会に間に合うようにムッソリーニ内閣にダンテウム建設を提案していました。プロジェクトは、ヴァルダメリからテラーニとピエトロ・リンジェーリに委託されました。1938年に戦争が開始され、プロジェクトは延期され、その後中止となります。
ダンテウムの構成は、新曲の寓話性に沿っています。つまり、地獄、煉獄、そして楽園へ導くダンテの「新曲」の構成と平行する一連の記念碑的な空間で構成されています。しかし、テラーニは、この新曲の物語をそのまま説明しようとするのではなく、テキストの形式と韻の構造に焦点を当てて、それらをイタリアの合理主義に典型的な、繊細で注意深く構成された空間と無装飾のファサードに翻訳します。この建築はビザンチン様式教会の建築構造に影響を受けているため、ダンテウムはある意味では翻訳の翻訳です。文芸、芸術、建築のそれぞれの意味を内包する複雑なデザインに関連付けられています。
この空間的構造は、いわゆる建築要素の明示的なボキャブラリーに収斂されず、空間構造に詩的意味を表現する新しい方法を確立しました。
3.建築家 ジュゼッペ・テラーニの書籍 紹介
GA No.74〈ジュゼッペ・テラーニ〉カサ・デル・ファッショ1932-36/アントニオ・サンテリア幼稚園1936-37
ジュゼッペ・テラーニの建築書籍は、日本語は少ないです。これはその中でも重要なカサ・デル・ファッショが掲載されているので、おすすめです。
4.まとめ
建築家ジュゼッペ・テラーニは、イタリアの近代を代表する建築家です。テラーニの建築は、精神的に重くのしかかってくるようです。そうした当時の思想的な側面が、テラーニの作る空間にも出ているようです。ダンテリウムは、思想、文芸、建築の融合であり、テラーニの建築にとても良くあっていたと思います。アンビルドで残念ですが、できていたらどうだったのか想像してしまいます。