建築家 前川國男は、日本の初期のモダニズム建築をリードした建築家の一人です。前川國男はル・コルビュジエの元で学び、その後アントニン・レーモンドの事務所を経て独立しました。日本の近代建築を語る上で最も重要な建築家といってよいでしょう。
本記事の内容
本記事では、建築家 前川國男の略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。前川國男は、当時40代であったコルビジェのもとで修行しました。コルビジェの初期の建築思想とともにモダニズムの時代性を学びそれを日本に移入しました。どんな経歴を持っているのでしょうか?
目次
- 建築家 前川國男の略歴
- 建築家 前川國男の作品
- 前川國男自邸
- 東京文化会館
- 東京海上日動ビルディング本館
- 建築家 前川國男の書籍 紹介
- まとめ
1.建築家 前川國男の略歴
前川國男は、1905年新潟生まれで育ちは東京です。父の前川貫一は内務省に務める土木技師でした。また、弟の前川春雄は後の日銀総裁であり兄弟ともに博識ですね。
1928年に東京帝国大学工学部建築学科卒業に入学します。この時の同期が、谷口吉郎です。前川國男の初期の経歴で重要なのは、パリでル・コルビュジエのアトリエに入ったことでしょう。このとき、シャルロット・ペリアンらと一緒に仕事しました。その後、 1930年に坂倉準三がコルビュジエの事務所に来ますが、ちょうど入れかわりです。
帰国したの後は、レーモンド建築事務所に入所します。前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの日本を代表する建築が、レーモンド事務所出身です。
前川國男の最初の実作は、木村産業研究所です。
1935年に銀座に事務所開設します。しかし、1945年の空襲で銀座事務所が焼けおちたため、目黒の自邸に事務所機能を移転します。この時の自邸はその後移築されて今も保存されています。保存されて本当に良かったです。
前川國男はその後、1951年に CIAM(シアム・近代建築国際会議)第8回大会に、丹下健三と吉阪隆正を連れて参加します。この時の経験は、二人にとって重要な位置を占めています。
1968年に第一回日本建築学会賞大賞受賞します。その後も数々の受賞をしますが、最後まで近代建築普及に尽力しました。
1986年に81歳で死去します。
前川國男は、ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドという近代建築の旗手のもとで学び、日本のモダニズム建築の前線で日本建築界をリードしてきました。丹下健三や構造設計の木村俊彦は前川事務所の出身でした。まさに、日本の近代建築の土台を作ったと言ってもよいと思います。
前川國男の設計の特徴は、ラーメン構造、工業化、機能主義といった西欧の近代建築の文脈によって捉えられるというよりも、コルビジェの言葉を借りれば「光の下で組み合わされた諸々のヴォリュームの巧緻精確で壮麗な遊戯」というように、人間的な尺度と日本文化的な枠組みを持っていると言えます。
2.建築家 前川國男の代表作 紹介
前川國男自邸
前川國男自邸は、第2次世界対戦下に誕生したモダニズムの木造住宅です。前川國男の自邸はもともと品川区上大崎に1942年に建てられた住宅です。新しい自邸を建設する際に解体されて、材料は軽井沢の別荘の保管されていました。それがなかなかすごいことですね!日本建築の良さです。解体して、再度組み立てられたのです。現在は、小金井市の江戸東京たてもの園内に移築されています。
外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室を配した シンプルな間取りになっています。しかし、内部はモダニズムです。
この前川國男自邸もコルビュジエの影響が見られます。また、小規模で木造で設計したのは、戦時中で資材が限られていたこと、建築に関する厳しい制限があったことも影響しています。
前川國男は、この自邸に30年以上も住み続けました。その後、新前川國男邸を鉄筋コンクリート造によって建てます。それは、歳をとった夫人のためのものでもありました。
このは、前川夫妻が亡くなった後に売りに出されて、現在も保存をしながら住まわれ続けている。
東京文化会館
コルビュジエが設計した国立西洋美術館の目の前に前川國男の代表作である東京文化会館が建っています。
東京文化会館は、上野公園の一角にある東京都立のホールです。東京都開都500年祭の記念事業として開館して、1961年に前川國男は日本建築学会賞作品賞を受賞しています。
なんどもコンサートを見に行ったことがありますが、音楽ホールとしての評価も高く、奇跡の音楽ホールと呼ばれています。
東京海上日動ビルディング本館
本館は前川國男設計で1974年竣工です。施工が竹中工務店・大林組・鹿島建設・清水建設共同企業体です。プレキャストコンクリートにあらかじめレンガを仕込むなど、新しい工法の提案もされています。
有名な出来事があります。このビルの建設の際には、皇居のすぐ近くに超高層ビルを建てることから、美観論争と高さの制限に関する争いが起きました。
美観論争は、皇居の周りに皇居を見下ろすようなビルを建てることの是非をめぐり対立が起きました。
また、高さは建築基準法以前の規制により100尺(約31m)の高さ制限ぎりぎりに抑えられていたことが原因です。実際にはこの規制によりビルが高さを保って並ぶ統一された景観が造られていましたが、前川國男設計の建築申請は、当初ツインタワーで30階建て・高さ127.768メートルという大規模なものでした。
これを、論争後に25階建て・高さ99.7メートルに変更して確認申請が下りて建設されたという経緯があります。
今はそれほど目立たないですが、当時は大きな物議を醸し出した建築であったと言えます。
3.建築家 前川國男の書籍 紹介
前川國男・弟子たちは語る
弟子たちが語る前川國男です。読み物としても結構面白いですよ。
戦前パリのル・コルビュジェに学び、その後日本の近代建築の確立に巨大な足跡を残した建築家・前川國男(1905~86)。本書は前川に師事し、その仕事に協力した多くの建築家たちによる、前川の仕事ぶり、生きざま、所員たちへの温かいまなざしの記録である。弟子達の若き日の記憶を通して、闘将といわれた前川の知られざる人間的な側面に光を当て、彼の多くの作品と、その作風の変遷に込められた意味をさぐろうとする、異色の書。
「BOOK」データベースより
建築の前夜―前川國男文集 (日本語)
前川國男が考える近代建築像がよくわかります。もっと前川國男が知りたい人へおすすめです!
ル・コルビュジエに師事し、戦前戦後を通じて日本建築界に大きな足跡を残した建築家前川国男(1905‐1986)の生涯を追い求めた「近代建築」とは何だったのか。
「BOOK」データベースより
4.最後に
建築家 前川國男は日本の近代建築に多大な影響を与えた建築家です。当時にフランスに渡ってコルビジェのもとで修行するのは、実力も、やる気も、そして幸運も揃っていたことと思います。その数少ない切符を手に入れた前川は、自分の役割をよくわかっていたのではないでしょうか。モダニズムだけに突き進むのではなく、日本建築とモダニズムを併せ持つ新しいデザイン設計をしているように感じます。皆さんも、ぜひ前川國男が残した建築を体験してみてくださいね。