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芸術家 岡本太郎を知ろう!太陽の塔/明日の神話

芸術家 岡本太郎

芸術家 岡本太郎は、川崎市出身の芸術家です。1970年の大阪万博のプロデューサーとして「太陽の塔」を作成し、また「芸術は爆発だ!」という鮮烈な言葉でも知られています。

Photo: Public Domain

本記事の内容

本記事では、芸術家 岡本太郎の略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。芸術家 岡本太郎は、川崎出身の芸術家です。若き頃にフランスに渡り、そこで10年ほど暮らしながら当時の芸術家を交流を深めていきました。戦争の影響で、パリを脱出し日本の戻ってからは、東京を拠点に作品を創作しました。ソルボンヌ大学で民族学を学んだり、スキーやピアノはプロ級だったり、多彩な才能がいろいろな側面から芸術に集約しているようです。

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目次

  1. 芸術家 岡本太郎の略歴
  2. 芸術家 岡本太郎の代表作 紹介
    • 1970 太陽の塔
    • 1971 母の塔
  3. 芸術家 岡本太郎の書籍 紹介
  4. 芸術家 岡本太郎の美術館 紹介
  5. まとめ

1.芸術家 岡本太郎の略歴

芸術家 岡本太郎は、1911年に神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)で生まれました。

日本を代表する芸術家の一人です。岡本太郎の父は、漫画家の岡本一平で、母は作家の岡本かの子です。慶應義塾幼稚舎から、青山にある青南小学校に入学しますが一学期で退学となったそうです。

その後も十思小学校へと入転校を繰り返しました。慶應義塾普通部を卒業して、東京美術学校へ進学します。

岡本太郎は1930年代にソルボンヌ大学で学び、第二次世界大戦後に多くの芸術作品を残しました。

父の一平は、朝日新聞の記者としてロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになったのが、岡本太郎がパリに行くきっかけです。

岡本太郎は東京美術学校を休学して、親子三人と青年二人を加えて1929年(昭和4年)に神戸港を出港して渡欧します。

1930年1月にパリに到着して、これ以後約10年間、岡本太郎はフランスで過ごすことになります。

岡本太郎太郎はフランス語をパリ郊外のリセ(高等学校)で勉強し、1932年にはソルボンヌ大学に通います。ここで、ヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいます。

1932年に両親が先に帰国することになり、岡本太郎はパリに残ります。

母の岡本かの子は1939年(昭和14年)に岡本太郎の帰国を待たずに亡くなったため、岡本太郎にとってこの別れが母の顔を見た最後になりました。

また、1938年には民族学者(文化人類学者)のマルセル・モースの下で、民族学を学びました。

これが後に、縄文文化や日本の文化を探求する素養となったのだと思います。

岡本太郎がパリ滞在中に関わった芸術家の中には、シュル・レアリスム運動のリーダーであるアンドレ・ブルトン(1896–1966)や、シュル・レアリスム芸術の権威でもあったスイスの芸術家であるカート・セリグマン(1900–62)がいました。

岡本太郎はまた、パブロ・ピカソ、マン・レイ、ロバート・キャパ、キャパのパートナーであるゲルダ・タロウ(岡本の名を姓として採用したことで知られている)とも友人関係にありました。

ゲルダとの親交は短く、ゲルダは1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かって、そこで発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去しています。

岡本太郎は、1940年にドイツ軍によるパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国します。帰国後は二科展に出品して受賞したり個展も開きます。

1942年に補充兵役として召集され、帝国陸軍兵として中国戦線に出征します。岡本は、最下級の陸軍二等兵でした。また、30代と高齢であり厳しい兵役生活だったそうです。

1945年に太平洋戦争が終結し帰国します。世田谷区上野毛にアトリエを構えてあらたな制作を行います。

この頃、平野敏子と出会い、敏子は後に秘書となり、さらに養女となって岡本太郎のパートナーとして太郎が逝去するまで支え続けます。

1950年代に、名古屋のオリエンタル中村百貨店から旗艦店の正面に大きな壁画を制作するよう依頼を受けました。しかし、オリエンタル中村が三越に買収された後、壁画は取り壊されました。

1954年に東京の港区青山に自宅兼アトリエを建てます。このアトリエの設計者は坂倉準三です。

建築家 坂倉準三を知ろう! 岡本太郎邸/神奈川県立近代美術館など

以来亡くなるまでこの家を生活と制作の拠点とします。

その頃中学生でも読める芸術の指南書を書くように、光文社から依頼され、代表作品となる『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を出版します。

この中で、岡本太郎は「芸術とは生きることそのものである」と解説し、この本は芸術解説書とは異なる人生観を提示し、ベストセラーとなります。

1964年、岡本太郎は「神秘日本」という本を出版しました。

岡本太郎の「日本の謎」への興味は、東京国立博物館を訪れて、そこで見つけた縄文土器に端を発しています。このあと、日本文化の根底にある謎を探るために全国を旅することになります。

この後、1960年代後半メキシコを訪れた岡本は、シケイロスなどによるメキシコ壁画運動からとても大きな影響を受けます。

そして、メキシコにに滞在中に、メキシコシティのホテル・ド・メキシコのホテル経営者から壁画の制作依頼を受けます。

ホテルの経営難で壁画が行方不明になってしまいますが、なんとメキシコシティで壁画が30年間ぶりに発見されます。その後、2008年11月に「明日の神話」として、渋谷に展示公開されました。

岡本太郎の最も有名な作品の1つである太陽の塔は、1970年に大阪府吹田で開催された万国博覧会のシンボル・タワーです。

1970年の万国博覧会に向けて、当時通産官僚だった堺屋太一らは、万博のテーマ展示のプロデューサーとして岡本太郎にアプローチして、就任を要請しました。岡本太郎はこれを承諾して、出来上がったのが『太陽の塔』です。

そして会場デザインのプロデューサーは、丹下健三でした。丹下健三の「お祭り広場」の屋根を突き破って、岡本太郎の太陽の塔があります。

写真でしかみたことがありませんが、このインパクトは最高です。まさに、岡本太郎の「規制打破」の真骨頂です。

建築家 丹下健三を知ろう! 世界のTANGE(全作品リストあり)

この太陽の塔は、人目見たら忘れられない形をしています。この形は、人間の過去(下部)、現在(中央)、未来(顔)を示しています。

80歳のときに、所蔵していたほとんどの作品を川崎市に寄贈して、岡本太郎の故郷である川崎市は、川崎市北西部の多摩区に川崎太郎美術館を建設しました。

1996年に、パーキンソン病と急性呼吸不全で84歳で亡くなりました。

1998年から、岡本太郎の自邸であった青山のスタジオは、岡本太郎美術館として開放されています。

2.芸術家 岡本太郎代表作 紹介

1970 太陽の塔

太陽の塔は、1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会のために制作されました。テーマ館の一部であり、万博終了後も万博記念公園に壊されずに残されています。

2020年に国の登録有形文化財に登録されました。

高さは70メートルで、上部に顔がありますが、この目は日没後に光るようになっています。

また、塔の内部は「生命の樹」がテーマで、生物進化を抽象化した作品となっていいます。2018年より再び公開されています。

1971 母の塔

母の塔は川崎市にある岡本太郎美術館の屋外に展示されています。

高さは30メートルあり、真珠色の破砕タイルによって台座の部分が覆われており、見た目からも大地に根ざした巨木のイメージがあります。

また、ふくよかのフォルムは母性をイメージさせます。

屋外にあるので、美術館に入館しなくても見ることができます。

3.芸術家 岡本太郎の書籍 紹介

沖縄文化論-忘れられた日本 (中公文庫) Kindle版

岡本太郎の日本への眼差しが示されており、ソルボンヌ大学でマルセル・モースに学んだ民俗学者としての岡本太郎の側面も見えてきます。

苛酷な歴史の波に翻弄されながらも、現代のわれわれが見失った古代日本の息吹きを今日まで脈々と伝える沖縄の民俗。その根源に秘められた悲しく美しい島民の魂を、画家の眼と詩人の直感で見事に把えた、毎日出版文化賞受賞の名著。

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自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか

学生時代に読んだのを思い出します。今めくってみても元気をもらいます。そうだ、いつまで経っても忘れてはいけない気持ちがある!

そういう気持ちにさせる岡本太郎の文章です。

瞬間瞬間を生きているか。ほんとうの自分を貫いているか。「才能なんて勝手にしやがれだ」「ダメ人間なら、そのマイナスに賭けてみろ」 今も鋭く問いかける、生涯芸術家岡本太郎からのメッセージ。93年刊の新装版。

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4.芸術家 岡本太郎の美術館 紹介

岡本太郎美術館

岡本太郎美術館は、神奈川県川崎市多摩区の生田緑地内にあります。

岡本太郎より川崎市に寄贈された作品1779点を所蔵、展示しています。

岡本太郎記念館

東京の南青山に岡本太郎記念館があります。岡本太郎が42年間住みながら、アトリエとして使った場所です。設計は坂倉準三です。

当時のままに道具や、作品を展示しています。

5.まとめ

芸術家 岡本太郎は、日本を代表する家具デザイナーのひとりです。有名な「低座イス」は、日本の暮らし方の中でこそ生まれたデザインです。靴を脱ぎ、自由に横にもなれる畳の生活こそが、このデザインを生んだのだと思います。日本と海外のモダニズムの思想が融合したデザインです。長く使えるデザインですし、「座椅子とこたつ」の組み合わせも良いです。

注意説明 公共建築以外の場所の特定は行っていません。個人の所有物である住宅は、場所の特定をしないように配慮しております。ご了承くださいませ。

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