建築家アドルフ・ロースは、チェコ共和国モラヴィア地方ブルノ出身出身の建築家でウィーンで活躍しました。「装飾と犯罪」の主張はとても有名で、モダニズムの初期の理念を構築しました。
本記事の内容
本記事では、建築家 アドルフ・ロースの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家アドルフ・ロースはチェコ共和国生まれで、オーストリアのウィーンで活躍した建築家です。1893年から3年間米国に滞在しており、シカゴなどの高層ビルから大きな刺激を受けました。また、アメリカはどこの都市に行っても新しく気候もヨーロッパよりも温暖な場所も多いため、建築自体も比較的軽い作りでも大丈夫です。そこが、ヨーロッパの重く歴史のある街並みへのある種の対立的視点を作っていったのではないかと思います。その意味では、アドルフ・ロースの有名な「装飾と犯罪」は、体験的な出来事から生まれるべくして生まれたようにも思います。それでは、モダニズム初期のアドルフ・ロースの建築を見てみましょう!
目次
- 建築家 アドルフ・ロースの略歴
- 建築家 アドルフ・ロースの作品
- 1909 アメリカンバー
- 1911 ロースハウス
- 1930 ヴィラ・ミュラー
- 建築家 アドルフ・ロースの書籍 紹介
- 装飾と罪悪について
- まとめ
1.建築家 アドルフ・ロースの略歴
建築家アドルフ・ロースは、1870年に現在のチェコ共和国モラヴィア地方ブルノ出身の建築家です。
アドルフという名の通りゲルマン系であり、父は石工でありまた彫刻家でした。ドレスデンで学んだ後に、アメリカに行きます。ここで、シカゴの高層ビルをみて大きな衝撃を受けたといいます。この衝撃が後のアメリカン・バーなどに結びついていきます。
1896年に26歳での帰国後は、論考の執筆に取り掛かります。「ポチョムキン都市」(1898年)や「装飾と罪悪」(1908年)などの論考もこうした中で生まれてきます。
こうした方向性は、同じウィーンで花開いていたユーゲント・シュティールや「ウィーン分離派」、「ウィーン工房」(ヨーゼフ・ホフマン)といった運動とは対立に向かいます。
代表作であるロースハウス(1909-1911年)は41歳のときの設計です。ロースは耳が聞こえにくかったのもあるのかコミュニケーションが上手ではなく、かなり気難しかったそうです。そのため、建築界では孤立していました。一方で、建築以外の様々な分野の文化人との交流がありました。違う分野のほうが話しやすい面が合ったのかもしれません。評論家のカール・クラウスとは生涯の友人でした。
その他にも、画家のココシュカ、音楽家のシェーンベルク、哲学者のヴィトゲンシュタインなど交友関係は広かったようです。
1912年にアドルフ・ロース建築学校を設立します。その後、第一次世界大戦後はウィーン市住宅建設局で主任建築家となりました。しかし、ロースのデザインは先駆的で折が合わずに1924年退職します。その後、翌年パリに移住して、晩年はウィーンに戻ります。
1933年に63歳で逝去します。
2.建築家 アドルフ・ロースの代表作 紹介
1909 アメリカンバー
アメリカンバーは1908年に竣工です。アドルフロースは、1893年から1896年までの3年間、米国に滞在していました。アメリカン・バーはその米国経験がモチーフです。インテリアのサイズは、わずか4.40×6.00×4.10 mです。また内部に配置されたミラーは部屋に奥行きを与え、暗さにさらなる深みを与えています。また、使用材料は、木材、ガラス、真鍮、オニキスで、ウィーンの近代建築の初期の作品のひとつです。
ウィーンのインナーシティ1区にケルントナー通りを入ったところにあります。現在はウィーンの重要建造物です。
1911 ロースハウス
ロースハウスは、アドルフ・ロースの代表作で、1911年に竣工しました。41歳のときですね。
クライアントのレオポルド・ゴールドマンは、アドルフロースに豪華な依頼しました。ビジネスビルディングを建設しました。特に材料に関しては、コストも労力も節約されませんでした。大理石張りの下部ファサードエリアと上の住宅の床のシンプルな石膏ファサードのコントラストは印象的です。
当時では装飾を極限までそぎ落としたといっても良い建物です。形態は機能に従うといったように、モダニズム建築の先駆といえます。低層部に列柱が並んでおり古典主義的な印象ですが、平面的なファサードは大きな非難を受けました。それは、当時一般的だった窓の装飾(窓台、窓まぐさ)が完全になくなっていたことがわかりやすい原因でした。
ロースハウスは、ウィーンの王宮前で歴史的建造物が並ぶ一角に建設されたため、フランツヨーゼフ皇帝は建設以後、このロースハウスを見るもの避けてたそうです。当初はこの窓の装飾がなくて建設がストップし、最終的には窓に花壇をつけることで建設が許可されました。
1947年にウィーンはロースハウスを歴史的記念物に指定し、1987年にはライファイゼンバンクウィーンが建物を購入して、完全に改装しました。
1930 ヴィラ・ミュラー
ヴィラ・ミュラーはチェコ共和国プラハの住宅で1930年に竣工しました。アドルフ・ロースが60歳のときです。この住宅は、フランティシェク・ミュラーがクライアントです。ミュラーはエンジニアであり、カプサ&ミュラーという建設会社を共同所有していました。この同社は鉄筋コンクリートを専門とし、新しい建設技術の開発も行っていました。その意味でLoosの設計方法の改良にも取り組み、プロジェクトのタイミングはちょうど良かったと言えます。
建築家のカレル・ロタは、フランティシェク・ミュラーとロースと組んでこの別荘を設計しました。 ロタはアドルフ・ロースが当時体調不良であったため、建築デザインにも大きく貢献しています。
共産主義が1948年に実権を握り、ヴィラの付属品とコレクションの最も重要な部分は、応用美術館と国立美術館に寄贈されます。その後、ヴィラはチェコスロバキア共和国の文化的記念碑となりました。1989年の共産主義崩壊後、家は娘のエヴァマテルノバに引き渡され、その後彼女は1995年にプラハ市に売却しました。現在は、プラハ市博物館の管理下にあり、2000年に再オープンしました。
このヴィラ・ミューラーは初期のモダニズム建築の革新的な建築であり、アドルフ・ロースの機能性のアイデアを体現しています。 ここでのラウムプラン(Raumplan)として知られる空間デザインは有名です。個々の部屋のが複数の区分されたレベルの部分にあり、それらは機能的であり、かつ象徴的な存在です。このラウムプランは、内装だけでなく外装にも影響を与えています。
アドルフ・ロースの言葉を引用しておきます!
「私の建築は計画ではなく空間(立方体)で構想されています。私はフロアプラン、ファサード、セクションをデザインしません。空間をデザインしています。私にとっては、1階、1階などはありません。…私にとっては、連続した連続的なスペース、部屋、控え室、テラスなどしかありません。階が合体し、スペースは互いに関連しています。」
外装には、1908年のエッセイで示された「装飾と犯罪」の理論が示されていました。エッセイの中で、アドルフ・ロースは装飾された表面を批判しています。そのため、ヴィラ・ミュラーの外観は、白い立方体のファサードです。このように他人が見ることができる外と、そこに住んでいた人々の私的な空間の内とを区別したかったとアドルフ・ロースは言います。その結果、インテリアは快適な家具と大理石、木材、シルクの表面で豪華に装飾されているのです。
3.建築家 アドルフ・ロースの書籍 紹介
にもかかわらず――1900-1930 (日本語)
アドルフ・ロースの重要な論考の全訳です。アドルフ・ロースを知りたい場合には、まず必読書となります。本当にいい本が出ました。
モダニズム移行期の巨匠として広く認められながらも、そのような歴史理解をはるかに逸脱した謎でありつづけるアドルフ・ロースの主著、初の全訳。都市・建築のみならず家具、工芸品、ファッション、音楽、料理、テーブルマナーにいたるまで――20世紀初頭のウィーンで盟友カール・クラウスとともに論陣を張ったスキャンダラスな毒舌家による同時代「スペクタクル社会」批判が展開する。近代建築宣言の先駆として名高い「装飾と犯罪」をはじめ、「ミヒャエル広場の建物に関するふたつの主張とひとつの付言」「現代の公団住宅について」「建築」「他なるもの」「郷土芸術」「家具の終焉」「ペーター・アルテンベルクとの別れ」「アーノルト・シェーンベルクと同時代人」ほか全31篇(本邦初訳14篇)。
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4.装飾と犯罪について
「装飾と犯罪」というタイトルは、1910年にアドルフ・ロースによって行われた、「装飾と犯罪」と呼ばれる講義に由来しています。アドルフ・ロースは、当時オーストラリアで流行していた芸術運動であった「アールヌーボー(ユーゲント・シュティール)への対抗として、装飾的な細部は退化したものであると宣言しています。アドルフ・ロースによると「本当のデザインとは強くて堅実で、そして剥き出しでなければならない」「装飾で隠されてはならない」ものでした。そのため、ヴィラ・ミュラーやシュタイナーハウスなどは、経済的で実用的であり、かつアドルフ・ロースが言うむき出しの純粋な形でした。
この装飾を敵視した過激なスタンスは、20世紀前半の禁欲的なモダニズムの時代に多くの共感を得たと言えます。プラニングで言えば、新しく発見された鋼とコンクリートの組み合わせによる構造的な可能性は、小さく制限された部屋(装飾過多の時代を影で支えた人々の居場所)支えたをあっさり取り除きました。そして、20世紀初頭の近代化の伸展による中産階級の浸透により、さらに使用人への依存が少なくなり、モダニズムが推進する(そしてアドルフロースがスタンスである)禁欲的で総則を廃したガラスの広大な広がりと、外部をしっかりと取り込んだオープンプランの採用、そして新しい家族生活が急速に広がっていきます。
このアドルフ・ロースが初期に開拓したインターナショナル・スタイルは、世界中であまりにも急速に採用されました。その結果、都市部の多くは同一性の強い構成要素で溢れています。その反省から、また揺り戻しが様々起こるのですが、このアドルフ・ロースのスタンスの説得力、実用性、経済的性は今の時代にあいも変わらずマッチしていて、魅力のあるまちづくりの難しさを感じてしまいます。
5.まとめ
建築家アドルフ・ロースは、ヨーロッパの近代を代表する建築家です。ヨーロッパで産業革命が起こり近代が始まったわけですが、政治、経済、文化を含めて乗り越えないといけない課題が多かったのだと思います。そのひとつの現れとして、建築もあった。アドルフロースの装飾排除に関する過激なスタンスは、こうした時代背景、生活、文化の大きな変容と同時に見ていかないといけないなと思い知らされます。なかなか面白いですね!