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建築家 ミース・ファン・デル・ローエを知ろう! ファンズワース邸など

建築家 ミース・ファン・デル・ローエは、ドイツ出身でその後アメリカに亡命して、活躍したモダニズムの巨匠です。ル・コルビジェとフランク・ロイド・ライトとともに、近代建築の3大巨匠と言われます。

本記事の内容

本記事では、建築家 ミース・ファン・デル・ローエの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家 ミース・ファン・デル・ローエはドイツ出身ですが、バウハウスの校長を務めていた時にナチスに追われアメリカに亡命します。その後は、イリノイ工科大学で教授を務めて、ニューヨーク州にシーグラムビルディングを設計するなど、近代建築から現代まで最前線で活躍しました。

目次

  1. 建築家 ミース・ファン・デル・ローエの略歴
  2. 建築家 ミース・ファン・デル・ローエの作品
    • ファンズワース邸
    • バルセロナ・パビリオン
    • シーグラムビル
  3. 建築家 ミース・ファン・デル・ローエの書籍 紹介
  4. まとめ

1.建築家 ミース・ファン・デル・ローエの略歴

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは、1886年にドイツ生まれました。20世紀を代表する建築家で、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に三大巨匠と呼ばれています。

「Less is more」という言葉を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

少ないことは、より豊かなことである

わかりやすいく、そしてシンプルです。ミースの真骨頂は言葉にもあらわれています。

ミースはラーメン構造でつくる内部空間とは、あらゆる機能を許容できるということで、ユニヴァーサル・スペースという概念もつくりました。

ミースは、ドイツのアーヘンに生まれました。父は石工です。大学で正式な建築教育を受けてはいません。これもル・コルビュジエと重なります。

職業訓練学校で製図の勉強をしたのちにデザイナーとして事務所に勤務します。

そこでに仕事が認められて1908年から建築家ペーター・ベーレンスの事務所にドラフトマンとして勤務して、建築を学びます。

4年間ベーレンスの事務所で働いたのちに1912年に独立して、1913年に結婚します。その後は、ベルリン近郊の富裕層の住宅設計を行います。

転機は1927年に訪れます。ドイツ工作連盟が主催したシュトゥットガルト住宅展に参加しました。この住宅展覧会は近代建築を知る上でとても重要です。

このシュトゥットガルト住宅展では、ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエも参加していました。

1929年に代表作であるバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館でバルセロナ・パビリオンを設計します。

このときデザインしたバルセロナ・チェアも有名です。

その後グロピウスの推薦で、1930年からバウハウスの第3代校長を務めます。この時に、チェコスロヴァキアで代表作のひとつであるトゥーゲントハット邸(1930年竣工)を設計します。

3年後、ナチスによってバウハウスが閉鎖されミースはアメリカに亡命します。

その後、イリノイ工科大学建築学科の主任教授を務めて、同大学のクラウン・ホールなどの設計を行いました。

1951年竣工のファンズワース邸、1958年竣工のシーグラム・ビルディングも有名です。

1969年に83歳で逝去しました。

2.建築家 ミース・ファン・デル・ローエ代表作 紹介

ファンズワース邸

ファンズワース邸は1951年に竣工した住宅で、ミースの代表作のひとつです。

ファンズワース邸は、ミース・ファン・デル・ローエによって1945年から1951年にかけて設計および建設されました。場所は、シカゴのダウンタウンの南西90 kmにあります。イリノイ州プラノ市の南、フォックス川に隣接する24ヘクタールの広大な敷地を持っています。

この極めて単純明快なプランを持つスチールとガラスのファンズワース邸は、著名なシカゴの腎臓専門医であるエディス・ファンズワース博士から依頼されたものです。

エディスのバイオリンの演奏、詩の翻訳、自然を楽しむ趣味に従事できる場所として使われる別荘でした。

しかし、建設の終わりに行くに従って建築家とクライアントの間に対立が生まれます。

それは建設資金の大幅な超過でした。この事件は訴訟となりミースは結果的に勝訴しましたが、ミースはその後エディスと再び連絡を取り合うことはなかったといいます。

住宅にはかならずクライアントがいます。

そして、どんな住宅にもいろんな人間模様がありますね。

バルセロナ・パビリオン

1929年にバルセロナ・パビリオンはミース・ファン・デル・ローエによって設計されました。

モダニズム建築の傑作といわれています。

一度解体されましたが、1986年に復元されて現在はミースの記念館になっています。バルセロナに行ったら自由に見ることができます。

バルセロナ・パビリオンは、1929年のバルセロナ万博の時にスペイン国王を迎えるレセプションホールでした。

そのため、内部には石材はオニキス(縞瑪瑙)、緑色テニアン大理石、トラバーチンと高価な素材が使用されていました。

奥のガラスの先に水面があり、彫刻家ゲオルク・コルベによる裸婦像が置かれています。

また、重要な点として、バルセロナ・パビリオンは同時期の住宅であるトゥーゲントハット邸(1930年竣工)のプランへ大きな影響を与えています。

シーグラムビル

シーグラム・ビルディングは、ニューヨークの52丁目と53丁目の間あります。1958年にシーグラムのアメリカ本社ビルとして建設されました。

設計はミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンですが、実は、ミースはニューヨーク州の建築免許を持っていなかったので、フィリップジョンソンに頼んだという経緯があるのです。

シーグラム・ビルディングは38階建てで、高さは156メートルです。

当初はミースが設計者ではなかったのですが、当時の社長サミュエル・ブロンフマンの娘であるフィリス・ブロンフマン・ランバートは大学で建築を学んでおり、彼女の意向が建築家の選定に大きく左右しています。

フィリスはその後に新社屋の企画責任者となり、設計者としてミースを選定しました。

シーグラム・ビルディングの特徴は、敷地の半分をオープンスペースとして開放したことです。また、フレームとガラスで構成されたシンプルなガラスの外観は大きなインパクトを与えました。

このシーグラム・ビルディングのプラザは、都市ビルディングと広場の構成に多大な影響を与えました。

つまり、シーグラム・ビルディングが現代のニューヨークのその後の都市空間を決定づけたと行っても良いでしょう。

それは、斜線規制から容積規制へと建築規制が変化する契機を作ったことです。

広場を設けることで、上部の容積を追加できる。これは大きな変化です。

街にとっても、ビル所有者にとっても両得となる解決策です。

斜線規制から容積規制への建築規制の恒久的な変更は、1961年にニューヨークの地域指定条例改正によって実現しています。シーグラム・ビルディングが竣工して3年後です。

現在もシーグラム・ビルディングのプラザはニューヨーカーの憩いの場となっています。

3.建築家 ミース・ファン・デル・ローエの書籍 紹介

ミース・ファン・デル・ローエ (SD選書)

基本の入門書籍にして、最良書です。

これを読むとミース・ファン・デル・ローエの全体像が網羅的にわかります。

ミースのことを知りたい人、「Less is more」の意味を知りたい人、ミース建築を米国に見に行く人などにおすすめです。

この本は、著者が長い間、研究経験したり,感銘したミースの言葉や作品を、諸説と評論を加えながら伝記的にまとめている。ミースの建築哲学と建築形態の考え方を新たに理解しようとする良き入門書。写真図版235点収録。

Amazonより

4.まとめ


建築家ミース・ファン・デル・ローエの建築は3つとも全て見ましたが、一番印象に残っているのは、シーグラムビルディングです。シーグラムビルディングとその前にある広場の対比、そして都市空間への貢献、人々の広場の使い方、どれも印象に残っています。社会空間における建築の強さをひしひしと感じます。こういう建築のあり方を目指すなら、個人事務所ではなく、ゼネコンやディベロッパーですね。


注意説明 公共建築以外の場所の特定は行っていません。個人の所有物である住宅は、場所の特定をしないように配慮しております。ご了承くださいませ。

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