芸術家・デザイナー イサム・ノグチは、米国のロサンゼルス出身の芸術家です。日系人で、香川の牟礼にアトリエを持ち、多くの作品を残しています。
本記事の内容
本記事では、芸術家・デザイナー イサム・ノグチの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。芸術家・デザイナー イサム・ノグチは、米国のロサンゼルス出身の建築家です。イサム・ノグチは、パリ、米国、日本、メキシコ、インドなど多くの場所を旅しながら作品を残しています。また、フリーダ・カーロと恋愛関係なるなど恋愛関係が豊富で、また戦争を挟んで日米のアイデンティティの狭間で多くの経験をして、そうした多くの経験と人間性が作品に現れているように感じます。
目次
- 芸術家・デザイナー イサム・ノグチの略歴
- 芸術家・デザイナー イサム・ノグチの代表作 紹介
- 1951 「Akari」シリーズ
- 1999 イサム・ノグチ庭園美術館
- 1998-2005 モエレ沼公園
- 芸術家・デザイナー イサム・ノグチの書籍 紹介
- まとめ
1.芸術家・デザイナー イサム・ノグチの略歴
芸術家・デザイナー イサム・ノグチは、1904年にロサンゼルスで生まれました。
イサム・ノグチは日系アメリカ人で、1920年代から60年に活躍した芸術家であり、建築的な観点から考えるとランドスケープアーキテクトとも言えます。
彫刻やパブリックアートで知られるノグチは、マーサ・グラハムを代表とするさまざまな作品の舞台セットから作品を開始し、その後は大量生産されるAkariシリーズのランプや家具も設計しました。
イサム・ノグチは、アメリカで高く評価された日本人詩人の野口米次郎と、野口の作品の多くを編集したアメリカ人作家のレオニー・ギルモアの息子です。
1906年、米次郎はレオニーを息子を東京に招きました。レオニーは最初は拒否しましたが、米国における日露戦争後の反日感情の高まりにより米次郎の申し出を受けます。
サンフランシスコを出発して横浜に到着すると、米次郎は、そこでイサムという名前をつけたと言います。しかし、米次郎は、その時に既に違う日本人女性と結婚しており、その後の息子の側に米次郎はほとんどいませんでした。
1912年にアメリカのモダンダンス運動のパイオニアとなるイサムの異母姉妹であるアイレス・ギルモアが生まれます。レオニーは3人のために家を建てましたが、なんと8歳のイサムが庭のデザインを監督していたそうです。
1918年、ノグチはインディアナ州ローリングプレーリーで学校に通うために米国に戻ります。1922年2月にコロンビア大学の医学部生となり、野口英世と出会います。野口英世はノグチに芸術を専攻するように促したそうです。
また、当時に日本のダンサー伊藤道郎に会うことで、芸術家と出会う糸口を見つけました。1924年、まだコロンビアに在籍している間、野口は母親のアドバイスに従い、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜学で芸術のコースを受講しました。
校長のオノリオ・ルオトロは、ノグチの仕事に感銘を受け、ノグチは最初の展示である石膏とテラコッタの作品をつくります。
その後、コロンビア大学を中退し、彫刻に心血を注ぐことを決意して名前を彼が長年使用していた姓ギルモアのからノグチに変更しました。
自分のスタジオに引っ越した後、ノグチは肖像画の胸像の依頼で仕事を見つけローガン芸術賞を受賞しました。この間、アルフレッド・スティーグリッツなどのモダニストのギャラリーで前衛的なショーを頻繁にみに行って、特にルーマニア生まれの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの作品に強い興味を抱きます。
1926年後半、ノグチはグッゲンハイム奨学金を申請しました。申請書の中で、彼は石と木の切断面を研究し、パリで1年間「人間の姿をよりよく理解する」ことを提案し、年齢要件が合わなかったにもかかわらず助成金を授与されました。
ノグチは1927年にコンスタンティン・ブランクーシのスタジオを訪れて、7か月間ブランクーシの助手として採用されます。ノグチは、ブランクーシの最大の教えの1つが「瞬間の価値」を評価することであったと回想しています。
ノグチはこの時に、「石の彫刻」の世界に足を踏み入れました。
ノグチは1年目に「大理石の球体セクション」という1つの彫刻しか制作しませんでしたが、2年目にはイタリアの彫刻家マテオエルナンデスと石細工のトレーニングを続け、木、石、板金の20以上の抽象画を制作しました。
野口の次の主要な目的地はインドでした。彼はオリエンタル彫刻について勉強するためにグッゲンハイム奨学金への延長を申請しましたが拒否されました。
1929年にニューヨーク市に戻り、ノグチはブランクーシが訪問を進めたカフェを訪れて、バックミンスター・フラーと出会います。ノグチはここで、フラーのダイマクションのモデリングを含むいくつかのプロジェクトで協力しました。
帰国後、パリで制作されたノグチの抽象的な彫刻は、最初の個展に展示されました。いずれの作品も売れなかったそうですが、マーサ・グラハムやバックミンスター・フラーとの作品を含むいくつかの展示は、好評を博したそうです。
メキシコで、ノグチは彼の最初の公共事業として、メキシコシティのアベラルドロドリゲス市場のレリーフ壁画をデザインするために選ばれました。
1936年に完成した作品は、非常に政治的および社会的に意識が高く、ナチスの卍、鎌と槌、方程式E =mc²などの現代的なシンボルが特徴でした。ノグチはこの時期にフリーダ・カーロに会い、短いながらも情熱的な関係を持っていました。
真珠湾攻撃を受けて、アメリカでは反日感情が高まり、ノグチは日系アメリカ人の強制収容を止めることに奔走します。しかし、ほとんど政治的な影響力にはならなかったそうです。
ノグチは1942年5月にポストン収容所に到着し、唯一の自発的な抑留者となったそうです。ノグチは最初は大工屋で働いていましたが、その後キャンプ内の公園やレクリエーションエリアを設計しましたが、実施には至りませんでした。
ノグチは11月に1か月の一時解雇を認められ、ニューヨークに戻ります。ノグチはグリニッチビレッジに新しいスタジオを構え、1940年代を通して、シュルレアリスム運動から引き出されたアイデアを作品にしていきます。
1947年にノグチはハーマン・ミラーと共同します。現在も生産されている象徴的なイサムノグチ・テーブルなど、モダニズムスタイルのシンボルとなったいくつかのデザインが生まれました。
ノグチはまた、演劇との関わりを続け、マーサ・グラハム、ジョン・ケージ、マース・カニンガムのためのセットをデザインしました。
1948年に友人のアーシルゴーキーが自殺し、インドのナショナリストであるジャワハルラールネルーの姪との恋愛関係が失敗した後、ノグチはボリンゲンフェローシップによって世界を旅することを行います。
1950年に再来日して、銀座三越で個展を開きます。この時に日本で丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドら知り合うことになりました。
また、さらに1年後の来日では、岐阜提灯の工房を訪れることで野口の新しい作品として「あかり (Akari)」シリーズのデザインを開始します。また同年、山口淑子(李香蘭)と結婚します。
北大路魯山人に陶芸を学んで、素焼きの作品制作をはじめます。
また、広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)の公募が行われて、ノグチのデザインが選ばれましたが、日系アメリカ人という立場から実施には至りませんでした。
1970年には大阪で行われた日本万国博覧会では、噴水作品を設計します。
イサム・ノグチは1988年に84歳で亡くなりました。
多彩な作品を作った20世期を代表する芸術家であり、イサム・ノグチのファンは日本にもとても多いです。
2.芸術家・デザイナー イサム・ノグチの代表作 紹介
1951 「Akari」シリーズ
イサム・ノグチは、1951年に岐阜提灯の工房を見学して岐阜提灯と出会います。
そのシンプルで柔軟なフォルムに大きな関心を寄せて、「折りたためる」「コンパクト」といった岐阜提灯の特性を具備した<AKARI>を完成させます。
この<AKARI>は、友人であったバックミンスター・フラーにも送られたそうです。
その後も、新しい形や大きさ変えて新作を作り、なんと200種類以上もの<AKARI>が現在までにデザインされました。
そのデザインは現在でもとても新鮮で、和風建築にもモダン建築にもマッチする普遍性を持っています。

イサム・ノグチにとって、<AKARI>を住居内を照らす「光の彫刻」であったそうです。
こうしてみると、彫刻の定義もイサムノグチが解釈し直し、広げていったことがわかります。
1999 イサム・ノグチ庭園美術館
1956年に香川県の牟礼町を訪問して、ノグチは1969年からアトリエと住居をこの地に構えます。
その後、20年余りの間、香川とニューヨークを往き来しながら、和泉正敏をパートナーとして多くの作品を制作していきます。
イサム・ノグチ庭園美術館は、ノグチのアトリエと住居をそのまま残して開放したものです。自ら選んだ展示蔵の位置や住居など、この美術館全体がイサム・ノグチの彫刻とも言えます。
イサム・ノグチ庭園美術館は何度行っても飽きない、新しい発見のある場所です。

1998-2005 モエレ沼公園
モエレ沼公園は、1978年に札幌市が規模な水郷公園として再開発に着手しました。イサム・ノグチが友人の誘いで札幌を訪れた際に、札幌市は是非ともイサムノグチ作品を展示してほしいと複数の候補地を提案します。そこでノグチは、モエレ沼公園に強い関心を寄せて、公園の全体設計に参画することになります。
札幌市も正式にノグチに公園設計を委託し、モエレ沼公園の2000分の1の模型(マスタープラン)が披露されますが、同年にノグチは急病によりなくなってしまいます。
その後、札幌市はマスタープランを元に公園設計を継続を決定し、1998年にはノグチの急逝から10年を経て開園されます。


3.芸術家・デザイナー イサム・ノグチの書籍 紹介
イサム・ノグチ(上) (講談社文庫)
大変残念ながら、絶版になってしまいましたが中古本かKindleであれば購入可能です。
最初の一冊としては十分な内容とボリュームです。作品を見る前に是非!
イサム・ノグチの名前は知らなくても、彼の「あかり」の連作なら誰もが見知っているだろう。シンプルな紙細工の照明器具は、デパートなどで販売されてきた「芸術作品」であり、サラリーマンでも容易に入手できることをイサムは誇りにしていたという。
本書は「ミケランジェロの再来」とも言われた彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)の生涯の最もプライベートな部分まで、FBI文書などの貴重な未発表資料を数多く用いて丹念に描き出す。その人生は物語の主人公のように波瀾万丈で、登場する人物も実に多彩である。22歳のイサムを「助手」として迎えた彫刻家ブランクーシ、イサムの「パトロン」としてさまざまな援助を惜しまなかった陶芸家北大路魯山人。山口淑子(李香蘭)との数年にわたる結婚生活をはじめ、その華麗な女性遍歴もつまびらかにされる。豊富な肖像写真によって、人々を引きつけてやまないイサムの魅力が生き生きと浮かび上がる。
日米の混血児として、日本のみならずアメリカでも第二次大戦前後に辛酸をなめたイサムの一生をたどる本書の焦点は、モダンであることを常に追求してきたイサムの作品の芸術的評価や分析以上に、どちらの国にも帰属し難かった彼の懊悩(おうのう)にあてられている。惜しまれるのは、もし本書が巻末に人名索引を備え、せめて数点でもイサムの代表的彫刻作品をカラーで紹介していたら、専門の研究者にとってもさらに有用なものとなっていただろうということである。(安田靜)
Amazonより
4.まとめ
芸術家・デザイナー イサム・ノグチは、米国を代表する芸術家のひとりです。日系アメリカ人として、戦争を挟んで両国で板挟みになりながら、多くの優れた作品を残しています。街の中で、知らずしてイサム・ノグチの作品に触れていることもあります。石の冷たさの中に、触れると温かみがあるような、とても感覚的に心地よい作品のイメージが強いですが、本を読むとその中には多くの葛藤があったことがわかり、とても興味深いです。