建築家 ブルーノ・タウトは、ワイマール時代のケーニヒスベルク出身の建築家です。来日後に桂離宮を訪れて絶賛し、日本文化に関する書籍を執筆したことでも知られています。
本記事の内容
本記事では、建築家 ブルーノ・タウトの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家 ブルーノ・タウトは、ケーニヒスベルク出身の建築家です。近代建築の代表的建築家ですが、ドイツ表現主義の影響や、多様な色彩を用いたファサードなど独自のデザインコードを持っていました。ナチスドイツから逃れドイツを脱出した後は、日本を経てトルコに渡り、多くの建築をトルコで設計しました。戦争を挟んで激動の時代の建築家です。
目次
- 建築家 ブルーノ・タウトの略歴
- 建築家 ブルーノ・タウトの代表作 紹介
- 1914 ガラス・パヴィリオン
- 1925 馬蹄形住宅
- 1930 交通連盟ビル
- 建築家 ブルーノ・タウトの書籍 紹介
- まとめ
1.建築家 ブルーノ・タウトの略歴
建築家 ブルーノ・タウトは、1880年にケーニヒスベルクで生まれました。
ドイツのワイマール時代に活躍した建築家、都市計画家、作家として知られています。
タウトは中等学校を卒業した後、さまざまな建築家の事務所で働きながら、当時の流行であったユーゲントシュティールのデザインや、構造としての鉄鋼と石積を組み合わせた建築工法を体験を通して学びます。
1904年からは、シュトゥットガルトでテオドール・フィッシャーの事務所で働き、1908年にベルリンに戻り、現在のベルリン工科大学(シャルロッテンブルク王立技術学校)で美術史と建設を学びました。
その後、フランツ・ホフマンと共同で建築事務所タウト&ホフマンを設立しました。
1910年にドイツ工作連盟の重鎮で合った建築家ヘルマン・ムテジウスは、タウトにガーデンシティの哲学を学ぶためにイギリスを訪れるように提案しました。
また、ムテジウスはヴァルター・グロピウスを含むドイツ工作連盟の建築家グループをタウトに紹介しました。
タウトは、1914年にケルンで開催されたケルン工作連盟の展覧会において、ドイツのガラス産業協会のためにガラスのパビリオンを設計します。このパビリオンが大きく評価されます。
このパビリオンのプリズムドームに見られるように、タウトは前衛的な未来の理想と技術を採用しています。彼の目的は、単にガラスを表面や装飾材料として使用するのではなく、ガラスで建物全体を作ることでした。
ブルーノ・タウトのドイツでの仕事
タウトの活動は第一次世界大戦で大きく変わり、戦後の悲惨な現実に対して、前向きなユートピアを提示するよりも、戦争の残忍さから逃れるための新しい都市の提案をします。
タウトは1912年から1915年にかけてマクデブルクで2つの住宅プロジェクトを完了しました。これらのプロジェクトは、田園都市構想の人道主義に影響を受けています。
敷地は平屋のテラスハウスで構成されており、タウトがデザインの約束事として多様な色を使用した最初のプロジェクトでした。
この時代のタウトは、こうした多様な色の使用が特徴的であり、同時代のヨーロッパのモダニスト建築家と大きく異なる点です。
1912年のベルリンのファルケンベルク住宅団地では、活気が出るようにあえて衝突する色を使用して、「ペイントボックス団地」として知られるようになりました。
同時期の、ミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスの真っ白な作品とは対照的に、タウトの家は原色で塗られ、ル・コルビュジエは、タウトに嫌悪感を示したとも言われています。
1924年、タウトはベルリンの公営住宅協同組合(GEHAG)のチーフアーキテクトになり、いくつかの大規模住宅開発を成功させました。
特にHufeisensiedlung(馬蹄形住宅:ホースシューエステート)では、メインデザイナーを務めました。
馬蹄形住宅:ホースシューエステートという名前は、池の周りの住宅配置構成と、地元のレストランにちなんで名付けられたそうです。もちろんカラフル外観が特徴で、特にドアなどのディテールへ色を使用する顕著な例になりました。
1924年から1931年の間に、タウトのチームはなんと12,000居室以上の住居群を完成させました。
タウトに敬意を表して、公営住宅協同組合はそのロゴに馬蹄形住宅:ホースシューエステートの抽象的なグラフィックを取り入れています。
ブルーノ・タウトの日本での仕事
社会主義政治を支持していたタウトは、ナチスが権力を握ったときにドイツから移住する機会を探します。
一時期ソ連に居住して働いていましたが、敵対的な政治環境のためにドイツに戻ることを余儀なくされ、その後タウトはスイスに逃げました。
そして、日本の建築家である上野伊三郎の招待を受けて、フランス、ギリシャ、トルコ、ウラジオストクを経由して日本を訪れます。
こうして、1933年にブルーノ・タウトは日本にやってきます。
敦賀に到着し、タウトは群馬県高崎に家を構えます。日本建築とモダニズムの規律を比較しながら、日本の文化と建築について本(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』『日本美の再発見』『日本文化私観』『日本 タウトの日記』)を執筆します。
このうち、『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』と『日本文化私観』がタウト滞日中に出版されました。
タウトは、京都の伊勢神宮と桂離宮を訪れて、日本建築の厳格でミニマルな性格を高く評価したことで知られています。
彼は、モダニズムの観点から桂離宮の建築的特徴について広範囲に書いた最初の人物でした。栃木県日光にある徳川家康の精巧な装飾が施された廟と比較して桂離宮を評価し、彼は「日本の建築芸術は桂より高くなることも、日光より低くなることもできない」と語りました。
日本のミニマリストの美学を称えたタウトの著作は、その後ル・コルビュジエとヴァルター・グロピウスの作品に影響を与えています。
日本で現存する唯一のタウト設計の建築作品は、静岡県熱海市の旧日向別邸の拡張です。
日向利兵衛が別邸の離れとして所有していた一部はモダンで一部は伝統的な和風のスタイルで、3つの部屋は社交イベントや近くの相模湾の景色を楽しめるスペースとなっています。
ブルーノ・タウトのトルコでの仕事
日本で建築を仕事を見つけられなかったタウトは、イスタンブールの州立美術アカデミー(現在はミマール・スィナン美術大学)で建築学教授の依頼を受けて、1936年にトルコに移住しました。
アンカラでは、マーティン・ワーグナーやタウトの仲間であるフランツなど、ドイツの亡命者もいました。イスタンブールのオルタキョイ地区に自分の家を設計し、タウトの住居兼スタジオはアインシュタイン塔や日本の仏塔に似ています。
1938年に亡くなる前に、タウトはトルコ教育省の委託を受けてアンカラとトラブゾンにいくつかの教育用建物を設計しました。
最も重要なものとしては、アンカラ大学の言語歴史地理学部、アンカラアタチュルク高校、トラブゾン高校があります。
タウトは1938年12月に亡くなり、最初で唯一の非イスラム教徒としてイスタンブールのエディルネカプ殉教者墓地に埋葬されています。
2.建築家 ブルーノ・タウトの代表作 紹介
1914 ガラス・パヴィリオン
1914年に建てられたガラスのパビリオンは、ケルン工作連盟の展覧会に出品されたものです。
コンクリートとガラスを使用しており、鮮やかな色は展示会のランドマークとなりました。ドームには二重ガラスの外層があり、内側には色付きのガラスプリズムがあります。
ファサードには、鏡として機能する色付きのガラス板がはめ込まれていました。
タウトはこのパビリオンを「小さな美の神殿」と呼び、そこにある色の構成について「濃い青で始まり、モスグリーンとゴールデンイエローを通って上昇し、上部で明るい淡い黄色に達する光の反射」と説明しました。
中にはガラス張りの階段があり、そこは上部の映写室に通じていて、色の万華鏡が見えていたそうです。
階段の間には、水中照明が付いた7層の滝があり、「きらめく水の中を通り抜けているかのように」下の階に降りる、新しい感覚を生み出したといいます。
ガラスパビリオンは、タウトの初期の最も有名な作品です。ガラス産業協会のために作成し、建物の目的は、建築用のさまざまな種類のガラスの可能性を実証することにありました。
また、この建築によって人間の感情を喚起し、精神的なユートピアの構築を支援する方法を模索していたそうです。
表現主義がドイツで最も流行していた時期に作られたので、その影響から表現主義様式の建築に分類されることが多いです。
1925 馬蹄形住宅
Hufeisensiedlung( 馬蹄形住宅:ホースシューエステート)は、1925年から33年に建てられたベルリンの住宅団地です。
建築家のブルーノ・タウト、共同建築家のマーティン・ワグナー、庭園建築家のレベレヒト・ミッゲ、ディレクターであるオットーカー・ワグラーによって設計されました。
20世紀初頭、ベルリンの人口は劇的に成長しており1850年から1920年代の終わりまで、その人口は25年ごとにおよそ2倍になりました。
この膨大な数の人々の流入によって、ベルリンは住宅の不足に直面していました。特にノイケルン、クロイツベルク、プレンツラウアーベルクなどの労働者の多い地区は顕著でした。
ベルリン市によって大規模な住宅が建設され、1924年から1931年までだけで14万戸のアパートが建てられました。
これらの団地建設のために住宅協同組合が設立され、その一つがGEHAG(1924年設立)であり、ブルーノタウトがチーフアーキテクトを務めていました。
ベルリンの中心部への通勤を可能とするこの開発は、馬蹄形のデザインと、すべての家にテラスガーデンがあるという社会的な理想を実現させました。馬蹄形の長さ350メートルの湾曲した構造物は、池の周りに配置され、25の住宅ユニットで構成されています。
すべての住宅ユニットには、バスルームとキッチン、独立したベッドルームがありました。この基準は当時革命的であったそうです。
釉薬瓦を備えた石炭オーブンがすべてのリビングルームとベッドルームに設置され、キッチンには、シンク、2つのバーナーを備えたガス炊飯器、ビルトインの食器棚がありました。バスルーム、トイレ、バスタブには石炭焚きの給湯器があったそうです。
このホースシュー・エステートは、他の5つの建築プロジェクトとともに、2008年に「ベルリンモダニズム住宅団地」としての世界遺産に登録されました。
1930 交通連盟ビル
現在タウトハウスとしても知られるドイツ運輸協会は、ベルリンのルイゼンシュタットにあるオフィス兼商業ビルです。
この建物は、1932年にドイツ運輸協会(運輸労働者組合)のために建てられました。
1927年のブルーノ・タウトによる最初の草案に基づいて、兄弟マックス・タウトが計画を修正し、1932年に建物を完成させました。
構造はコンクリートフレームによるラーメン構造です。
最上階がわずかにセットバックしていて、丸みを帯びた角が強調されています。ファサードには水平方向のウィンドウがあり、それぞれが耐荷重サポートの間にペアで配置されています。
入口部分はわずかに突き出ており、1階ゾーンには様々なショップやビジネスがありました。エントランスホールにある石造りの三角形の丸い階段が特徴です。
最上階の大きな会議室には、ルドルフ・ベリングによる6つのレリーフがあったそうです。
第二次世界大戦において大きな損傷を受けました。柱とパラペットは元々暗い素材で覆われていましたが、1949年から1951年の再建中に、明るい色の石灰岩パネルに置き換えられています。
3.建築家 ブルーノ・タウトの書籍 紹介
ニッポン―ヨーロッパ人の眼で観た
ブルーノ・タウトの日本語の書籍はとても多いです。人気ですねー。
ブルーノ・タウトは桂離宮を絶賛して、日本で建築設計の仕事をすることを熱望していましたし、日本を好きになってくれるのはとても嬉しいものです。
ブルーのタウトの不朽の名作の一つです。是非読んでみましょう。
1933年来日。深い愛情と透徹した視点で、伝統文化の意味と国民性の本質を見抜いた、世界的建築家による不朽の名著。
「BOOK」データベースより
4.まとめ
建築家 ブルーノ・タウトは、ドイツの近代建築を代表する建築家のひとりです。合理的なドイツの近代建築をベースにしながらも色彩豊かな共同住宅などを設計して、同時代の白色のモダニズム建築とは一線を画しています。共同住宅の色彩を見ると、現在は色褪せて落ち着いた色になっていますが、できた当時はかなり衝撃的だったのが想像できます。ブルーノ・タウトと聞いて一般的に抱くイメージとちょっと異なりますが、桂離宮も内部には青と白の市松模様のふすま紙があり斬新です。こうした点もブルーノ・タウトの好みに合ったのではないかと想像できます。