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建築家 村野藤吾を知ろう!世界平和記念聖堂/日生劇場など

建築家 村野藤吾は、佐賀県出身の建築家です。モダニズムの中に表現主義を導入し人間的で豊かな空間を作り出した建築家です。

本記事の内容

本記事では、建築家 村野藤吾の略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家 村野藤吾は、日本の近代を代表する建築家です。そのディテールの優美さとモダニズムのシンプルさが絶妙に合わさった空間が有名です。また、和風建築にも手腕を発揮し旧赤坂離宮の改修、佳水園などが知られています。

目次

  1. 建築家 村野藤吾の略歴
  2. 建築家 村野藤吾の代表作 紹介
    • 1937 宇部市渡辺翁記念会館
    • 1953 世界平和記念聖堂
    • 1963 日生劇場
  3. 建築家 村野藤吾の書籍 紹介
  4. まとめ

1.建築家 村野藤吾の略歴

建築家 村野藤吾は、1891年に佐賀県東松浦郡(現:唐津市)で生まれました。実家は船問屋を営んでいました。1910年に福岡県小倉工業学校を卒業して八幡製鐵所に入社します。徴兵後、1913年に早稲田大学理工学部電気工学科に入学して、その後建築学科に転科します。

卒業後、1918年に渡辺節建築事務所に入所して、日本興業銀行本店など大規模なビル建築の設計を行います。1929年に渡辺節建築事務所を退所して、自身の村野建築事務所を開設します。その後、日本は戦争の時代に突き進み、自身の事務所での実作の機会は減っていきます。

代表作の日生劇場、和風建築も有名で旧赤坂離宮の改修、佳水園なども設計しました。1955年に日本芸術院会員となり、1967年に文化勲章を受章しています。

2005年には、宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が国の重要文化財に指定され、2006年には世界平和記念聖堂(1953年築)も重要文化財となりました。

1984年に93歳で亡くなりました。

2.建築家 村野藤吾代表作 紹介

1937 宇部市渡辺翁記念会館

渡辺翁記念会館は、山口県宇部市にある音楽ホールです。 渡辺祐策(宇部興産の創業者)の記念するものであり、1937年に竣工して宇部市に寄贈されました。

村野藤吾はその後、宇部興産ビル(宇部全日空ホテル)、旧宇部銀行、宇部ケミカル工場など多くの作品を宇部市に残していますが、初期の大規模建築として出世作といえます。

渡辺翁記念会館の設計では、村野は早稲田大学の大隈講堂を設計した佐藤武夫から助言を得ています。渡辺翁記念会館は、良質の材料が使用されただけでなく、十分な改修工事を行ってきたことから現在も現役で使用されています。そのため、1995年に第4回BELCA賞ロングライフ部門を受賞しています。

日本のおける初期のモダニズム建築として極めて重要であり、2005年に国の重要文化財に指定されました。

鉄筋コンクリート構造で、外壁は黒褐色のタイル張りで、全く古びて見えません。会館前に長方形の記念碑があり、正面の左右に3本ずつ計6本の柱があります。

これらは、この会館の建築資金を提供した7つの企業を象徴しています。

1937 宇部市渡辺翁記念会館 建築家 村野藤吾
1937 宇部市渡辺翁記念会館

1954 世界平和記念聖堂

世界平和記念聖堂は、広島県広島市にあるキリスト教の聖堂で1954年に竣工しました。この世界平和記念聖堂は第二次世界大戦後の初めての大きな建築設計競技であり、2等には丹下健三ら2名が選ばれ、1等は該当者なしでした。そのため、審査員であった村野藤吾が設計することになります。

この設計コンペの経緯が後々まで大きな尾を引くことになります。近年で言えば、新国立競技場コンペなどと同じで、建築設計コンペにはいろいろありますね。

フーゴ・ラッサール神父が本聖堂を建設するのに大変尽力しました。原子爆弾の投下後、この地にあった教会は爆風ですべて倒壊しました。この原爆被害の大きさを体験したフーゴ・ラッサール神父は、真の世界平和のための場所として本聖堂の再建に取り掛かります。当時のローマ教皇ピオ12世にの協力の下、ヨーロッパ、アメリカ、南アメリカなどでも資金協力を求め、1948年に広島平和記念カトリック聖堂建築競技設計が発表されます。

「世界平和を希求する聖堂」へというラッサール神父の理念は重要で、1950年には「世界平和記念聖堂建設後援会」が発足し池田勇人大蔵大臣が代表発起人となったそうです。まさに国を巻き込んでの聖堂建設となっていきます。

審査委員会は、カトリック教徒であり早稲田大学理工学部建築学科の教授であった今井兼次を筆頭に、堀口捨己、吉田鉄郎、村野藤吾が名を連ねました。また、教会側からはフーゴ・ラッサールら2名、また後援者側から1名の計8名でした。

堀口捨己、吉田鉄郎は表現主義から装飾を排除する方向性を持っていましたが、今井兼次と村野藤吾はモダニズムの影響下でも表現的な手法をあえて使っていたといえます。そうした点から、堀口と吉田は前川案と丹下案を評価し、今井と村野はそれに否定的でした。

また、丹下健三の恩師でもある岸田日出刀が人選に入っていない点も、建築コンペの政治性が伺えます。

また当時のローマ教皇が近代建築への否定的な言及していたことも重要であったと言われています。それは、オスカー・ニーマイヤーが設計したブラジルのパンプーリャのサン・フランシスコ礼拝堂がカトリック教会では不評であったからです。

オスカー・ニーマイヤー設計 ブラジル サン・フランシスコ礼拝堂 建築家 村野藤吾
Design:Oscar Niemeyer

審査結果は1等当選者は該当者なし、2等に井上典一と丹下健三、3等は前川國男、菊竹清訓2名であった。この結果に当時の日本建築学会会長の岸田日出刀は反発している。

その後、本聖堂は今井が設計顧問となり村野藤吾が設計を無償で引き受けることになりました。実はその後、岸田日出刀らがいた学会賞委員会でこの世界平和記念聖堂が1956年建築学会賞に選出されます。

これにより、1等なしとした建築コンペの回答が審査員であった村野藤吾により「建築デザイン」で示されました。またその建築が建築界から高く評価を受けたことも重要です。

1954 世界平和記念聖堂 建築家 村野藤吾

丹下健三自身は、その後日本カトリックの総本山である東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計します。

1954 世界平和記念聖堂 建築家 村野藤吾

こうした経緯がこの聖堂にはあります。

1954 世界平和記念聖堂 建築家 村野藤吾

1963 日生劇場

日生劇場は、日本生命保険が創業70周年を迎えたことを記念して、また浅利慶太や石原慎太郎らの若手芸術家の強い熱情もその背後にあって誕生しました。竣工は1963年で、こけら落としとしてベルリン・ドイツ・オペラが公演しています。

この日本生命日比谷ビル・日生劇場は村野藤吾の代表作のひとつといえます。ビルは、鉄骨鉄筋コンクリート造、8階建、地下5階です。またオフィスと劇場から構成される複合ビルの代表例ともいえます。

劇場の客席天井と壁が曲面で構成されており、外観は花崗岩の石張りです。また音響効果が極めて高いと言われています。天井にはある2万枚のアコヤ貝の貝殻が幻想的で、表現主義的モダニズム建築の代表例です。

1963 日生劇場 建築家 村野藤吾

2006年にDOCOMOMO Japan選定の「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選出されました。

1963 日生劇場 建築家 村野藤吾

これは1960年代の建設中の日生劇場ですが、隣にフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが残っていますね。

このフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル(ライト館)は1968年に取り壊しになったので、当時に日生劇場の「こけら落とし公演」を見に来た人は、日生劇場で公演を見て、その後ライトの帝国ホテルに宿泊といったような贅沢な体験ができたのです。

これは羨ましいです。

1963 日生劇場 建築家 村野藤吾

3.建築家 村野藤吾の書籍 紹介

様式の上にあれ―村野藤吾著作選 (SD選書)

建築家村野藤吾の作品を詳細に見る前に、まずは村野の思想と考え方を学ぶのは、作品をよりふかく理解すためには「急がば回れ」的に有効だと思います。

12編の代表作をセレクトしてありますのでおすすめです。

名作を生んだ強靱な思索。『村野藤吾著作集』より代表論文12編を抜粋。モダニズム誕生の渦中にあって、建築の不変の価値を追い求めた真摯な感性が輝く。

Amazonより

4.まとめ

建築家 村野藤吾は、日本の近代を代表する建築家です。丹下健三と双璧をなしていたと言われますが、それは東大卒の官の丹下と、早稲田卒の民の村野ということと同時に、モダニズムの思想をまったく異なる方向性のデザインによって成し遂げようとした二人の立ち位置の違いでもあります。明治維新のときに、社会の改革を「江戸」側でやるのか、「維新」側でやるのか、同じ改革を目指していても方法論が違う!それと同じような戦う構図が見えてくるようです。

注意説明 公共建築以外の場所の特定は行っていません。個人の所有物である住宅は、場所の特定をしないように配慮しております。ご了承くださいませ。

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