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建築家 アントニン レーモンドを知ろう!その2 自邸/旧井上房一郎邸

かつて麻布にあったアントニン レーモンドの自邸は、現在は取り壊されて現存していません。しかし、群馬県高崎市の実業家であった井上房一郎が立てた自邸は、レーモンド自邸の図面を元に作ったもので、移築されて現存しています。実際には、プランが東西逆転しているなどの違いもありますが、房一郎の友人で会ったレーモンドに図面の使用を許してもらって建築された貴重なものです。

本記事の内容

本記事では、アントニン レーモンドの自邸と、現在レーモンド自邸の面影を残す旧井上房一郎邸について紹介します。知れば知るほど、本物見たくなります。すこし予習してから行くと建築の見方も全然違いますから、ちょっと見てみましょう。

目次

  1. 麻布のアントニン レーモンドの自邸
  2. 高崎の井上房一郎の自邸
  3. 旧井上房一郎邸の観覧について
  4. 高崎の井上房一郎の自邸の保存に関する要望書
  5. 最後に

1.麻布のアントニン レーモンドの自邸

アントニン レーモンド略歴

まず、簡単にアントニン・レーモンドについて解説します。

アントニン・レーモンドは1888年にボヘミア王国クラドノ(現在はチェコ共和国の一部)で生まれ、その後米国に移住したチェコ系アメリカ人の建築家です。

レイモンドはまた、1926年から1939年までチェコスロバキアの日本領事官でした。外交官としての側面も持っていたのです。

ナチスドイツがヨーロッパの国を占領した後、日本とチェコの外交は閉鎖されました。それが1939年となります。

アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの事務所における仕事が、彼の人生を大きく変えていきます。

フランク・ロイド・ライトとのレイモンドの最初の出会いは、1908年から1910年にレイモンドが小さなモノグラフを見たことがきっかけと言われています。

そして、フランク・ロイド・ライトの事務所に1916年からレイモンドは勤めます。その後、レイモンドは、ライトと一緒に東京に行って帝国ホテルの設計を行います。

レイモンドはライトのチーフアシスタントとして1年間働きますが、ライトのデザインが日本の気候、伝統文化と何の共通点もないと懸念し、最終的に1921年1月に事務所をやめます。

その後、自分の事務所を開設して、日本における近代建築あり方を模索しながら、多くの日本人建築家を育てていきます。

第二次世界停戦を挟んで帰国しますが、その後再来日を果たします。

ニューホープ、ペンシルベニア、東京の仕事で、レイモンドは伝統的な日本の建築技術と最新のアメリカの建築革新を組み合わせていきます。

そうしたデザインの原則を、日本とアメリカの住宅建築、商業建築などの幅広いプロジェクトに適用します。

英国の建築家ジョサイア・コンドルとともに、レイモンドは日本の近代建築の最大の貢献者して知られています。

レーモンド自邸

最初のレーモンドの自邸は、霊南坂にありました。「霊南坂の自邸(1923)」としてよく知られています。

この自邸は、鉄筋コンクリートによる建築です。1923年の鉄筋鉄筋コンクリート造による自邸は日本の近代建築の歴史の中でも先駆的でした。

写真を見ると、コンクリートの表現主義的な部分が見て取れます。こちらの自邸は、いわゆるモダニズム建築です。

詳しくはこちらの書籍をご覧ください。残念ながら絶版なので、国会図書館で見ることができますのでご興味があれば是非!

「レイモンドの家」1931年発行 洪洋社 川喜田煉七郎, 峯尾松太郎 編

他にもこんな書籍もおすすめです。

その後に、アントニン レーモンドは麻布の笄町に自邸を建設します。この自邸は、設計事務所を併設しています。

材料は、リーダーズ・ダイジェスト東京支社の建設が終わって後に、破棄される予定であった現場小屋の材料を再利用したものです。

ここでレーモンドは1951年から1978年まで自邸兼事務所として暮らしています。

まさに職住一体ですね。

笄町の自邸兼事務所は残念ながら取り壊されてしまい、現存していません。

そこで重要となるのが、高崎の井上房一郎の自邸です。

2.高崎の井上房一郎の自邸

高崎の井上工業の社長であった井上房一郎は、上記のレーモンドの自邸兼事務所の自邸の部分を、レーモンドからの図面の提供を受けて、そのままに建設しています。

この本は、1938年に作られた本の復刻版なので上記のレーモンド自邸の図面はないのですが、レーモンド事務所の図面が見られるのは面白いですね。

1938年初版、ディテール集の金字塔。
日本から学んだディテールの奥義を、図面と写真で図解。木造からRC造、屋根・壁・床から家具まで、自作の詳細図に託された不朽のメッセージであふれる名著。1938年初版の造本を忠実に再現。初版は全編英文で、図面に作品名が記載されていないが、この復刻版では解説書を付録し、まえがき・目次の邦訳ほか、各図面・写真の作品名を補説。初版のシナ木繊維のクロス装や出雲和紙・リング綴などを忠実に再現しつつ、復刻版オリジナルの函を付した工芸品のような造本となっている。

南洋堂の解説より

井上房一郎は自邸が火事で消失してしまったことで、なんと気に入っていたレーモンドの自邸を複製することを考えたのです。

そうした井上房一郎の依頼を、友人であったレーモンドは快諾して、図面を提供します。レーモンドの自邸であったから、依頼にも答えやすかったのだと思います。

誰か、他のクライアントの家であったらそうはいかないでしょう。

そうした二人の関係性のおかげで、現在レーモンドの自邸を、なんと高崎に行けばそのまま見ることができます。

ちょっと、井上房一郎が気になりますね。

井上房一郎について見てみましょう。

井上 房一郎とは?

井上 房一郎は、1898年生まれの実業家です。群馬県高崎市出身です。

井上房一郎は、芸術、経済、政治と様々な分野の庇護者であり、また自身も芸術を学んでいます。

ブルーノ・タウトを招聘したり、田中角栄への協力者としても有名でした。

旧制の高崎中学校を卒業して、井上房一郎は早稲田大学に進学します。この時に、山本鼎や北原白秋と出会い、絵画に強い興味を抱きます。その後、早稲田大学を中退します。

1920年代に、高崎で作られた民芸品販売の店を銀座で始めて、そこでアントニン レーモンドと知り合いになります。ここから、長い付き合いが始まるということになります。

レーモンドは1919年に帝国ホテル設計のフランク・ロイド・ライトの助手として来日し、1922年にフランクロイドライトから独立してレーモンド事務所を開設していますから、レーモンドが来日してかなり初期の頃にレーモンドにあったということになります。

井上房一郎は、1923年にパリに留学して、自身も絵画や彫刻を学びます。なんとここでアルベルト・ジャコメッティ兄弟とも知り合いになっています。うーん、すごい人です。

また、セザンヌなどの抽象画にも興味を抱きます。1930年に帰国して、親の会社であった井上工業に入社します。

1934年に来日したブルーノ・タウトの庇護者ともなり、高崎にブルーノタウトを招いて工芸品をデザインしてもらいます。

戦後は、音楽に傾倒して高崎市民オーケストラ(群馬交響楽団)を設立します。その後様々な要職を歴任していています。

政治、経済、芸術の各分野に精通したまれな人物であったことがわかります。

そういった人が、レーモンドの自邸を複製して自邸にしたのです。

3.旧井上房一郎邸の観覧について

旧井上房一郎邸は、高崎市美術館で見られます。

観覧料金

観覧料は展覧会により異なっています。そのため、インターネットでチェックが必要です。

高崎市美術館

旧井上房一郎邸の観覧料は美術館観覧料に含まれています。

開館時間

3月~11月:午前10時から午後6時まで(入館は午後5時30分まで)
12月~2月:午前10時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)

休館日

これも高崎市美術館の開館時間に準じています。

月曜日(祝日は開館し翌日休館)、祝日の翌日、展示替期間、年末年始(12月28日から1月4日まで)

問い合わせ

高崎市美術館
電話:027-324-6125

地図

4.高崎の井上房一郎の自邸の保存に関する要望書

2002年2月に、日本建築学会から旧井上房一郎邸の保存に関する要望書が提出されました。

実はこの時、「旧井上房一郎邸」が公売にかけられる告知が高崎市からなされていたのです。

それを受けて、日本建築学会から要望書が提出されました。

要望書には、井上房一郎とアントニン レーモンドの友人としての関係だけでなく、レーモンド自身の日本建築会への多大な貢献についても明記されています。

こうした住宅を保存していくことは重要である一方で、実際の保存には保存費用やメンテナンスなども含めて財政的に難しい面があります。

今回は高崎市の有志の援助と、高崎行政の英断で高崎市美術館へ移築されることが決定しました。この「旧井上房一郎邸」が保存されたことは本当に良かったと思います。

以下に、日本建築学会からの要望書の一部を引用します。

また、全文は「旧井上房一郎邸の保存に関する要望書」にあります。

1 近代建築史における価値

 旧井上房一郎邸は、井上房一郎(1898-1993年)の自邸として、1952年(昭和27年)に建設された。敷地は群馬県高崎市の駅西側にあり、高崎市美術館や市立南小学校と隣接しており、駅前から通り一筋を隔てただけにも関わらず、静穏で緑豊かな佇まいが維持されている。井上邸は、南に面して中庭とその東側に居間、西側に寝室、和室、台所などが配置され、北側は玄関と廊下からなる、平屋の住宅である。この建物は、チェコ生まれの近代建築家で、長く日本で活動した、アントニン・レーモンド(1888-1976年)が東京の麻布笄町に建てた自邸(1951年)との関連がよく指摘され、レーモンド設計という表現をされることもある。井上は、第二次世界大戦前からレーモンドと交友関係にあり、第二次大戦後再来日し、建築活動を開始したレーモンドの笄町の自邸も訪れており、その建物に強く感銘を受けていた。おりから自邸を焼失した井上は、レーモンドの許可を得て笄町の住宅を実測させ、それをもとに新たな自邸を設計した。したがって、住居と事務所から構成されていたレーモンド自邸とは異なり、井上邸は住居部分のみからなっている。また、中庭と居間、寝室の関係が両者では逆転している。さらに、井上邸には和室も加えられていた。それにも関わらず、柱筋が外壁とずらされた平面計画、柱や垂木を二つ割りの丸太で挟み込む構法など、いわゆるレーモンド・スタイルの特徴がよく踏襲されており、原設計レーモンド、実施設計井上ともいうべき、両者の建築的意図と表現の融合された作品となっている。

 レーモンドが日本の近代建築に果たした貢献はよく知られるところである。井上の委託に応えレーモンドが設計した群馬音楽センターは、高崎を代表する建築であるだけでなく、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査及び保存のための国際組織」(DOCOMOMO)の日本を代表する近代建築作品、二十(DOCOMOMO二十選)のうちのひとつに選ばれている。井上邸だけでなく、群馬音楽センターをとおして、レーモンドは群馬の建築文化と分かちがたく結ばれている。

 井上邸は、単に井上とレーモンドの関係から捉えられる建物ではない。レーモンドの笄町の自邸が存在しない現在、井上邸はレーモンドの住宅空間を彷彿させるだけにとどまらず、日本の近代建築史においても、重要な位置を占める作品ということができる。

日本建築学会による旧井上房一郎邸の保存に関する要望書

5.最後に

アントニン レーモンドの自邸は、高崎市に行った時には是非とも見てください。木造平屋に住む良さが本当によくわかります。近年はタワマンが流行りですが、できるものならば地に足をつけて住みたいと思わせてくれます。田舎にこんな住宅を建てて住んでみたいものですね。

注意説明 公共建築以外の場所の特定は行っていません。個人の所有物である住宅は、場所の特定をしないように配慮しております。ご了承くださいませ。

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