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建築家 I.M.ペイを知ろう! ルーブル美術館(ルーブル・ピラミッド)など

建築家 I.M.ペイは、中国の広州出身の建築家です。米国で活躍し、ルーブル美術館の改修(ルーブル・ピラミッド)の設計者として世界的に知られています。

本記事の内容

本記事では、建築家 I.M.ペイの略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家 I.M.ペイは、中国の広州出身で香港から上海を経て米国に渡り、米国を拠点として活躍した建築家です。米国の国家的なプロジェクトをいくつも完成させ、またルーブル美術館の改修で、現在は重要なアイコンとなっているルーブル・ピラミッドの設計者としても知られ、世界で最も有名な建築家の一人です。103歳で亡くなるまで、20世期を通して活躍した建築家です。

目次

  1. 建築家 I.M.ペイの略歴
  2. 建築家 I.M.ペイの代表作 紹介
    • 1978 ナショナル・ギャラリー東館
    • 1979 ジョン・F・ケネディ図書館
    • 1989 ルーヴル・ピラミッド
  3. 建築家 I.M.ペイの書籍 紹介
  4. まとめ

1.建築家 I.M.ペイの略歴

建築家 I.M.ペイは、1917年に中国の広州で生まれました。

父は、中国銀行の銀行員で、後に頭取を務めた人物です。ペイ家は蘇州に大きな土地を持っていて、代々地主であり裕福な家でした。

1918年に孫文政権からの資金援助が銀行に来た際に父はその援助を断ったため、当局による逮捕を恐れて家族はイギリス領であった香港へ亡命します。その後、孫文政権から許されて上海へと移りました。

ペイ家は、上海のフランス租界で暮らしました。ここで、I.M.ペイは欧米の文化を享受し、また祖父を通して中国文化の素養を得ていきます。

I.M.ペイは、東洋と西洋の文化を幼いときから肌で感じながら育ったといえます。I.M.ペイは香港の名門であるセント・ポール・カレッジを卒業して渡米します。

1935年にI.M.ペイペンシルベニア大学の建築学校に入学しました。その後すぐにマサチューセッツ工科大学に転校しました。

I.M.ペイは両方の大学が、共にボザール様式の建築に焦点を当てていることに大きな不満を持ち、独自に新進の建築学、特にル・コルビュジエの研究を行います。

建築家 ル・コルビュジエ

卒業後、ハーバード大学大学院デザイン研究科(GSD)に入学し、バウハウスの校長であったヴァルター・グロピウスとマイスター建築家であったマルセル・ブロイヤーの指導を受けて、後に友人になりました。

1948年にI.M.ペイはニューヨーク市の不動産王であったウィリアム・ゼッケンドルフに採用され、ウェッブ&ナップ社に入社します。そこで独立までの7年間働きます。

そこでは、鋼とガラスの建築を軸にミース・ファン・デル・ローエなどの影響を受けながら、都市再開発に携わります。

文化大革命の影響から帰国を断念して、1954年にアメリカ国籍を取得します。

1955年に独立して、デザイン会社I. M. Pei&Associatesを設立します。1966年にI.M. Pei&Partnersに改称し、1989年には、Pei Cobb Freed&Partnersになりました。ペイは1990年にフルタイムの仕事から引退し、その後は、息子の建築設計会社である、Pei Partnership Architectsで建築コンサルタントとして働きます。

I.M.ペイが最初に注目を集めたのは、コロラド州の国立大気研究センターのメサ研究所(1961年に設計され、1967年に完成)です。

その成果によって、マサチューセッツ州のジョンF.ケネディ図書館のチーフアーキテクトとして選ばれることになります。

その後、重要な建築物としてはダラス市庁舎とナショナル・ギャラリーの東館の設計があります。

I.M.ペイは1975年に初めて中国に戻り、フレグラントヒルズにホテルを設計して、さらに15年後に代表作の一つとなる香港の超高層ビル・中国銀行タワーを設計しました。

その後に、I.M.ペイの最も重要なプロジェクトとなるパリのルーブル美術館の改修があります。ここで、ガラスと鋼のピラミッドを設計します。この建物は、パリにおいて大きな論争の的となりました。

その後のインテビューで、このプロジェクトほど難しいものは今後ないだろうとI.M.ペイは語りました。

その後、ダラスのモートンH.マイヤーソン・シンフォニーセンター、日本のMIHO MUSEUM(ミホ ミュージアム)など、より芸術性の高い設計の世界に戻りました。

I.M.ペイは、1979年にAIAゴールドメダルなど建築の分野でさまざまな賞を受賞しています。 1983年、I.M.ペイはプリツカー賞を受賞しました。

結婚して70年以上ペイの妻であった、アイリーン・ルーは、2014年に亡くなりました。彼らには3人の息子と娘がいます。息子たちは、Pei Partnership Architectsを設立しました。

I.M.ペイは2019年に102歳で亡くなりました。

2.I.M.ペイの建築スタイル

ペイのスタイルは、キュビズムをテーマにしたモダニストであると解説されます。

I.M.ペイは、伝統的な建築原理と単純な幾何学を組み合わせることで、より進歩的なデザインを導く手法をとっています。そのため、円、正方形、三角形は、平面図と立面図の両方で彼の作品の共通要素となっています。

しかしI.M.ペイ自身は、こうした建築スタイルのトレンドについて語られることをあまり好んではいませんでした。

とくに、モダニズムとポストモダニズムといったような単純な二分法を拒否して、以下のように述べています。

「モダニズムとポストモダニズムについての話は重要ではありません。それは副次的な問題です。個々の建物、それが設計され、建てられるスタイルはそれほど重要ではありません。重要なことは、コミュニティす。」

3.建築家 I.M.ペイ代表作 紹介

1978 ナショナル・ギャラリー東館

1960年代半ば、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーの委員会は新しい美術館のために建築家を探していました。

新美術館は元の建物の東に位置するようにして、2つの機能(人気のコレクションを一般に鑑賞するための広いスペースと、奨学金と研究のためのアーカイブスペース)を必要としていました。

彼らは、この新しい施設をアレクサンドリア図書館のようなものにしたいと考えていたそうです。

ギャラリーの新美術館の委員会は、アイオワ州のデモイン・アートセンターとコーネル大学のジョンソン博物館で彼の作品を調べてから、I.M.ペイを設計者として選定し依頼しました。

ペイはこの依頼を引き受けて、当時採用した2人の若い建築家、ウィリアム・ペダーセンとヤン・ウェイマスと共にこの仕事に取り組みました。

ペンシルベニア通りの交差点にある台形の土地を見たときに、ペイは紙切れに2つの三角形の大まかな図を走り書きします。大きな三角形が、パブリックギャラリーになり、小さい方はオフィスやアーカイブを意味していました。

この三角形の形が、建築家にとって唯一のビジョンとなり、ペダーセンが建設が容易になる異なるアプローチを提案したところ、ペイはただ微笑んで「妥協はしない」言ったそうです。

大勢の人が新しい建物を訪れることを予測して、巨大な天窓で覆われた大きなロビーを設計しています。その周辺にギャラリーを配置し、各展示を見た後は広々としたメインルームに戻るような導線を考えました。

その後、ロビーには、アメリカ人アーティストのアレクサンダー・カルダーによる大きな可動式の彫刻が置かれました。

ペイは、ニューヨークのフランク・ロイド・ライトの設計によるグッゲンハイム美術館の中央の部屋にあるのと同じように、ロビーが一般の人々にとって、よりエキサイティングな空間になることを望んでいたといいます。

建築家 フランク・ロイド・ライト

建物の外装の素材は、とても慎重に選ばれています。元々あるギャラリーの大理石の壁の外観と質感に合わせるために、テネシー州ノックスビルにある採石場を利用しました。そこは、一度閉鎖していましたが、再稼働させて石を切り出しました。

このプロジェクトでは、なんと1941年に最初のギャラリーを建設した際に採石場の現場監督していたマルコム・ライスを見つけて雇うという念の入れようです。

大理石は3インチの厚さのブロックにカットされ、コンクリートの基礎の上に配置され、下部に暗いブロック、上部に明るいブロックが配置されました。

新しい美術館であるナショナルギャラリー東館は、1978年に公開され。世論は熱狂的に受け入れました。

しかし、一部の批評家は珍しいデザインを嫌って、建物全体の三角形への依存を批判していますが、かなり好意的な批評が大多数を占めていたといいます。

1979 ジョン・F・ケネディ図書館

ジョンF.ケネディ大統領は就任後すぐに図書館の設立を検討し始めました。ケネディ大統領は、この図書館の機能として、彼の政権のアーカイブを含みながら、政治学の博物館機能と研究所を含めたいと考えていました。

1963年11月にケネディ大統領が暗殺された後、図書館は殺害された大統領への記念の賛辞を含むように拡大され、ケネディ家の家族や友人は、大統領にふさわしい記念碑となる図書館の建設方法について話し合いました。

そして最終決定を下すことになるケネディの未亡人ジャクリーンに助言するために、建築策定委員会が結成されました。

委員会は何ヶ月も審議し、多くの有名な建築家を検討しました。最終的に、ジャクリーンがI.M.ペイが以前のプロジェクトで使用したさまざまなアイデアを高く評価していたことと、ペイとの個人的なつながりに基づいて設計者にI.M.ペイに選択しました。

ペイが最初に提案したデザインには、内部を日光で満たす大きなガラスのピラミッドが含まれていました。これは、ケネディ政権が米国の多くの人々楽観主義と希望を象徴したことを表していました。

ジャクリーンはこのデザインを気に入りましたが、プロジェクトが発表されるとすぐに、図書館の最初の候補地であるボストンのケンブリッジで強い抵抗が始まりました。

多くの住民は、図書館が観光名所になって交通渋滞を引き起こすのではないかと心配していました。また、このデザインがハーバードスクエアの建築的雰囲気を壊すことを懸念していました。

1970年代半ばまでに、ペイは新しいデザインを提案しましたが、図書館の反対派はどんなデザインであっても建設に抵抗しペイはかなり憔悴したといいます。

プロジェクトは最終的に、マサチューセッツ大学のコロンビアポイントに移動しました。ここは、古い埋め立て地であり、大きな下水管のすぐ上に位置していました。ペイの建築チームは、パイプを覆うために充填物を追加し、臭気を克服するための精巧な換気システムを開発しました。

こうして、大きな正方形のガラスで囲まれたアトリウムと三角形の塔と円形の通路を組み合わせた新しいデザインが発表されました。

図書館は1979年に竣工します。

批評家は好意的にデザインを受け入れましたが、I.M.ペイは長年の対立と妥協がデザインの性質を大きく変えてしまい、この最終結果に満足していなかったといいます。建築デザインに本来の情熱を欠いていると指摘しています。

1989 ルーヴル・ピラミッド

フランソワ・ミッテランが1981年にフランス大統領に選出されたとき、彼はさまざまな野心的な建設プロジェクトを計画しました。

その一つが、ルーブル美術館の改修でした。

ミッテランは、このプロジェクトを進行するために特別公務員を任命し、アメリカのナショナルギャラリーを含む有名な欧米の美術館を訪れた後、I.M.ペイに設計を依頼しました。

ペイは、プロジェクトの実現可能性を判断するために、パリを3回訪れたそうです。そして、その時はルーブル美術館の従業員1人だけが、ペイがそこにいる理由を知っていたそうです。(なんか、謎解きみたいで、すごいですね!)

この視察を経て、ペイは再建プロジェクトの実行可能性を確認し、またこの博物館の改修が将来のために必要であることを認識しました。

こうして、I.M.ペイはルーヴル美術館に関わる最初の外国人建築家になりました。

新しいデザインの中心には、建物の真ん中にあるクール・カレ(方形の中庭)の改修だけでなく、インテリアの変更も含まれていました。

ペイは、3つの主要な建物をつなぐナショナル・ギャラリー・イーストビルのロビーとは異なり、中央の入り口を提案しました。

中庭の中央で、彼は最初にケネディ図書館で提案したガラスと鋼のピラミッドを設計します。そしてこのピラミッドに、入り口と控え室の天窓としての機能を与えます。

また、太陽光を部屋に反射させるために、入り口の下にある別の逆ピラミッドによってミラーリングさせています。

I.M.ペイによると、これらのデザインは、フランスのランドスケープ・アーキテクトであるアンドレ・ルノートル(1613〜1700)へのオマージュだそうです。

ペイはまた、安定した透明性を確保するのに最も適したピラミッド形状を見つけて、それを「ルーブル美術館の建築、特に屋根のファセット面と最も互換性がある」と考えました。

ミッテランはこの計画をとても気に入りましたが、ルーヴル美術館の監督であったアンドレ・シャボーはこの計画に反対します。そして、彼はプロジェクトが「実行不可能」であり、「建築上のリスク」をもたらしたと不平を言って辞任します。

そして、この特徴的なガラスのピラミッドのために、パリの一般市民は厳しく反応します。ある批評家は、それを「巨大で破滅的な構造物」と呼んでいました。

その後ペイのチームは、フランスを代表する指揮者のピエール・ブルレスや元フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥの未亡人であったクロード・ポンピドゥなど、重要な文化人の支持を得ます。

そして、当時のパリのジャック・シラク市長から提案を受けて、ペイは国民の厳しい批判を和らげるために、ピラミッドの実物大のケーブルモデルを中庭に配置しました。

この展示会の4日間で、推定60,000人がルーブル宮を訪れました。そして、批評家やパリ市民は、ピラミッドの提案された規模を目撃した後、反対を和らげていきました。

構造への影響を最小限に抑えるために、ペイは透明な窓ガラスの新しい製造方法を要求しました。

また、ピラミッドは地下のレベルと同時に建設されたため、建設段階での問題が発生しました。また、建設チームは25,000の美術品を含む放棄された部屋を見つけるなど、多くの施工の問題が発生しました。

新しいルーブルは1988年に一般公開され、ピラミッドの入り口は1989年3月に開館しました。

この経験はペイにとっては、「疲弊と言うよりもやりがいが勝った」と言っています。一方で「ルーヴル美術館の後、難しいプロジェクトはないと思った」と、その困難さについても指摘しています。

このルーブル美術館の改修と、ルーブル・ピラミッドはペイの最も有名な建造物になりました。

4.建築家 I.M.ペイの書籍 紹介

I.M. Pei: Complete Works (英語) ハードカバー

I.M.ペイの建築を集成した決定版です。

複数の視点からのスケッチ、計画、写真があり、ペイの様々な仕事を理解するのに最適と思います。

When I. M. Pei was awarded the Pritzker Prize in 1983, the jury said he had “given this century some of its most beautiful interior spaces and exterior forms.” I. M. Pei: Complete Works, the first and definitive survey of the master architect, attests to this statement by showcasing Pei’s transcendent, sculptural forms in over fifty projects and more than 300 illustrations, culminating in the last works he is currently completing. Often working in a spare geometry with a palette of stone, concrete, glass, and steel, Pei—who began his career pioneering public housing projects in New York City—has taken his vision of modern architecture across the globe with commissions in locations as diverse as Quatar, China, Luxembourg, Japan, and Germany. Meanwhile, major projects such as the JFK Library in Boston and the East Building of the National Gallery of Art in Washington, D.C., have made him a household name in the United States.

Amazonより

5.まとめ

建築家 I.M.ペイは、米国を代表する建築家のひとりです。米国のワシントンDCにあるナショナル・ギャラリーやルーブル美術館の改修で有名です。MIHO MUSEUMは、日本にあるI.M.ペイ設計の美術館です。幾何学の魔術師と言われるI.M.ペイの空間を日本でも体験できる重要な建築です。機会があれば、是非行ってみましょう!

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