
建築家 増沢洵は、アントニン ・レーモンド設計事務所出身です。特に、レーモンド事務所にいた時に設計した自邸・最小限住宅は日本の戦後の住宅設計に大きな影響を与えました。
本記事の内容
本記事では、建築家増沢洵の略歴、代表作、書籍を紹介したいと思います。建築家 増沢洵は最小限住宅で有名ですが、成城学園の一連のキャンパス計画で建築学会賞を受賞しています。住宅作品はすでになかったり現存していても中を見れないので、公共建築を見にいくのも良いかと思います。
目次
- 建築家 増沢洵の略歴
- 建築家 増沢洵の作品
- 最小限住居(増沢邸)
- コアのあるH氏のすまい
- 成城学園計画
- 建築家 増沢洵の書籍 紹介
- まとめ
1.建築家 増沢洵の略歴
建築家 増沢洵は、1925年東京都で生まれました。代表作は、1952年竣工の自邸『最小限住居』が有名です。ネーミングも印象に残りますね。
1947年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業して、1947年にレーモンド設計事務所に入所します。アントニン・レーモンドに師事したのち、1956年に増沢建築設計事務所を開設します。
1964年から1965年まで東京大学工学部で講師を務め、1977年には成城学園の一連の建築群で日本建築学会賞を受賞します。
その後も自身の設計事務所で公共建築などを始め多くの設計活動を行なっています。
- 鈴鹿青少年スポーツセンター
- 北海道青少年スポーツセンター
- 南紀青少年スポーツセンター
- 山崎製菓古河工場
- カルピス岡山工場
- カルピス本社ビル
- 桑沢デザイン研究所
- 新宿風月堂
- 沼津市民文化センター
1990年に65歳で逝去します。
2.建築家 増沢洵の代表作 紹介
1952 最小限住居(増沢邸)
増沢の最小限住居について
最小限住宅は増沢洵の自邸で1952年竣工です。この時は27歳でまだレーモンド事務所の所員でした。また9坪ハウスという名前でも知られています。
この住宅は「新建築」1952年7月号に掲載されました。「新建築」の記事を引用します。
三×三=九坪の一階、三坪の吹抜をもつた九─三=六坪の二階、という小さな家であるが、全体が一空間的に構成されているので、コムパクトな広さをもつている。作者自身のすまいであり、家族三人の住居として決して狭いものではない。明晰な構造と素材の生地が、綺麗なディテールを以て納められている。広い敷地にこの様な箱型の家が出来たことには、多くの異論があるかも知れない。だが、Case studyとして日本の伝統的手法をハッキリと近代化してゆこうとする意図は高く評価されるべきであろう。なお設計者増沢氏はレーモンド建築事務所の若い所員である。
『新建築』1952年7月号
建築面積29平米、延べ床面積49平米です。狭小住宅の広さですが、マンションでいえば、都心にはよくある広さです。でも家族3人の住まいだとすこし厳しいです。
しかし実際には居間に吹き抜けがあり、思ったよりも狭くない、むしろ広いと感じさせるところが魅力です。この住宅面積ですが、増沢は住宅金融公庫から借り入れの資金が15坪だったことから、この面積が決まったようです。設計期間は2ヶ月、工事は3ヶ月という超短期間で完成させました。
実は、ひとつ都心の狭小住宅とは大きく違う点があります。それは、土地は狭小ではなかったです。なんと、200坪近い土地にこの狭小住宅を立てています。そのため、リビングのドア兼窓の目前には広がる庭がありました。子供たちが遊び場にしていたそうです。
そうすると、ちょっと印象が違いますね!マンションで言えば、狭いけど高層で目の前が開けているような感じでしょうか。
そう、これはケーススタディハウスとも言えるような、いわば実験的な住宅として作られたとも言えます。


1953 コアのあるH氏のすまい
コアのあるH氏の家は1953年に竣工です。約30坪の平面なので、上記の最小限住宅の3倍強の建築面積があります。極めて斬新なプランをしていて、これもケーススタディハウスという位置付けとなるでしょう。

以下の写真を見てください。ファンズワース邸のような軽やかさがこの住宅にはあります。1999年にDOCOMOMO JAPANに選定されました。



成城学園計画
1956年に増沢洵は設計事務所を開設しました。それは依頼された成城学園の設計活動を本格的に行うためでした。ここで、増沢洵は建築家アントニン・レーモンド事務所から独立したということになります。
現在も成城学園には、増沢洵の設計した建築物が現存しています。当初は書庫と1号館から始まった設計はその後も続き、1977年には成城学園の一連の建築群で日本建築学会賞を受賞します。
興味のある人は、是非とも見に行ってみましょう!最小限住宅とは違う増沢洵のモダニズムの設計が見られます。
「建築 1960年9月創刊号 増沢洵」には、特集記事が掲載されており、そこに「成城学園大学」も掲載されています。
建築 1960年9月創刊号 増沢洵
<目次一部抜粋>
- 建築にたいするおぼえがき – 増沢洵
- 素材と造形のあいだ-増沢洵の場合 – 山本学治
- 増沢洵作品
- 勅使河原邸
- ケーススタディハウス
- 成城学園大学
- クラブみつばち
- 解説 – みねぎしやすお
- 増沢洵設計図解説 – 植田一豊

3.建築家 増沢洵の書籍 紹介
基本は、絶版の書籍と雑誌を探すしかない状況です。
関連本を紹介します!
住まいの探究―増沢洵 1952‐1989
Casa BRUTUS特別編集 美しい住まいの教科書
TOMORROW’S HOUSE 美しい住まいの教科書 26組の美しい住まいと暮らしの作り方。 野村友里 eatrip 増沢洵が設計した家に住む。 皆川 明 mina perhonen シーンを見立てる。 シーネ・ビンスレウ・ヘンリクセン Space Copenhagen アートが際立つモノトーンの空間。 ピーター・ブンゴー・ルッツォー Space Copenhagen 直感とバランスを取り入れた空間。 細川亜衣 料理家 時代も国籍も飛び越える家。 半沢健 フォトグラファー 緑と光を感じる家。 相澤陽介 White Mountaineering ロジックのある椅子と暮らす。 高木由利子 写真家 陰翳礼賛。 TAKU ヘアスタイリスト 細部のこだわりが心地よい家。
「奇跡」と呼ばれた日本の名作住宅
戦後の混乱を経て、建築界の黄金期がはじまった。 現在の住宅の原型が生まれた1950年代から、その発展の歴史を辿る。 1959年創刊の建築実務誌「建築知識」が編む住宅設計の実務史。 時代とともに、人びとの暮らす住宅のあり方は変わり続けてきました。 「変化」とは天然または無作為の現象ではありません。 そこには必ずエポック・メイキングな住宅があり、建築家がいました。 建築業界に強烈なインパクトを与え、後の住宅設計に大きな影響を及ぼした 住宅と建築家を、その発想、プラン、工法、材料などに着目しつつ、 「建築知識」ならではの視点で、過去50余年、日本の住宅の “期を画した瞬間”をひも解きます。 建築家の思い、匠の技が込められた、日本の戦後建築史が学べる本です。 ■構成 1960年以前 小住宅の時代 斎藤助教授の家:清家 清|浦邸:吉阪隆正 傾斜地に建つ家:林 雅子|No.38(石津邸):池辺 陽 スカイハウス:菊竹清訓|ケーススタディハウス(伊東邸):増沢洵 ミゼットハウス:大和ハウス工業|晴海高層アパート:前川國男
4.増沢洵の思想のまとめ
増沢洵の建築思想は、特に「最小限住居」というコンセプトで知られています。彼のこの思想は、限られた空間を最大限に活用し、住まいの本質を追求することに重きを置いています。以下に、彼の思想の主な特徴を挙げます。
- 最小限住居の提案: 増沢洵は、戦後の日本における住宅事情を背景に、必要最小限の空間で快適に暮らすことができる住居を提案しました。彼の自邸「吹抜けのある家」はその代表例で、狭小住宅の設計における革新を示しています。
- 機能性と美しさの両立: 増沢は、住宅設計において機能性と美しさを両立させることを重視しました。彼の設計は、住む人々の生活スタイルや心地よさを考慮し、シンプルでありながらも洗練されたデザインを追求しています。
- 長く残る建築: 増沢の設計思想には、長く残る建築を作るという理念が含まれています。彼は、時代を超えて価値を持ち続ける建築を目指し、耐久性や普遍的な美しさを備えたデザインを心掛けました。
- 生活の質の向上: 増沢の作品は、単なる物理的な空間の設計にとどまらず、住む人々の生活の質を高めるための重要な要素として捉えられています。彼は、住まいを生活の中心とし、そこから生まれる豊かな生活を重視しました。
これらの思想は、増沢洵の作品を通じて具体化され、多くの建築家やデザイナーに影響を与え続けています。彼のアプローチは、現代の住宅設計においても重要な視点を提供しています。
5.まとめ
建築家増沢洵は、戦後の日本の住宅建築を代表する建築家です。1950年は、他にも多くの建築家による住宅が設計されています。また当時に活躍していた建築家の広瀬鎌二や池辺陽などの住宅と一緒に比べてみると面白いです。戦後の物資不足の中でどのように生活を守る住宅を作るのかが模索されています。